バルセロナのガウディ建築案内番外編⑫

サン・ジュスト・イ・パストールの教会(Sant Just i Pastor)
カタルーニャというのはある意味では屈辱の歴史であるわけだが、世紀末前後の繊維産業を契機に経済力を付け、この文化の独自性を吹聴する成果を得た。カタルーニャ語カタルーニャ語国際会議を1905年にバルセロナで開催し、当時の言語学者を呼びそれまでカタルーニャ語プロヴァンス語の一地方言であるという評価を覆し、独自の言語であることを確固たる位置づけした。建築、アートの世界ではこの富の蓄積をモデルニスモというかたちで表現し、ほぼ現在のバルセロナのモルフォロジーを決定的なものとした。建築だけではなく絵画、彫刻、音楽、文学などあらゆる分野で豊穣な作品を生み出して。ガウディもその例外であったはずはなく、恩恵を受けている。
カタルーニャ主義科学遊覧協会へのガウディの1879年4月29日の入会は無論ソーシャル・ネット・ワーキングで、地方出の職人の息子が大都会に出て、コネを作り仕事を得ようと躍起になっていたわけで、このカタルーニャ主義とは関係ない。この頃は受けた教育もあり、サインも文章も全てカスティージャ語で書かれている。例えばアントニではなくアントニオとサインしている。
同郷のジョアン・バプチスタ・グラウ・イ・バジェスピノス (Joan Baptista Grau i Vallespinós, 1832-93年)には1879年12月7日にタラゴナであっているが、これがガチガチのカタルーニャ主義で、教会側も見るに見かねて1888年6月10日にカタルーニャ語圏外のアストルガに送り込んだほどだった。壮年から、晩年にかけてこのグラウ司教や、1889年以降の付き合いとなったビックの司教、ジョセップ・トーラス・イ・バジェス(Josep Torras i Bages, 1846 - 1916年)はガウディに人間的にも、特にカタルーニャ主義の影響を強く受けている。他にもカタルーニャ語で書いた『アトランティダ』ジャシント・ベルダゲール・イ・サンタロ (Jacint Verdaguer i Santaló, 1845-1902年)、当時の代表的なインテリであった詩人ジョアン・マラガイ・イ・ゴリーナ (Joan Maragall i Gorina, 1860-1911年)、彫刻家ジョセップ・リモーナ・イ・ブルゲーラ (Josep Llimona i Bruguera, 1864-1934年)には1899年にサン・リュック美術サークル(Cercele Artistic de Sant Lluch)に誘われて入会して、ここで知り合った多くのアーティストをサグラダ・ファミリアに招いている。彼らに感化されたのか、1924年9月11日開かれたカタルーニャ愛国者のミサに出たとき、警官の尋問にカステジャーノ語(スペイン語)で話すことを拒みカタルーニャ語で応えたために逮捕されるというエピソードを起こしている。
所在地:Plaça Sant Just i Pastor
アクセス:地下鉄L4Jaume I下車15分, L3 LIseu下車15分

バルセロナのガウディ建築案内 (コロナ・ブックス)

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