2012-03-01から1ヶ月間の記事一覧

図版 99   Casa Calvet

カサ・カルベ。 アントニ・ガウディ作、1898〜1900年 ガウディは生涯を通じて、公的機関からその才能を認められたことは、稀というより、まず皆無に近かった。例えばカサ・ミラという当時の一等地にあれほどの大規模な作品を残していながすらも、市が、每年…

4/7 マジョルカ島カテドラル修復

ほとんどグエイ公園の建設と時を同じくして、マジョルカ島パルマの修復という仕事をしている。 カテドラルはハイメ一世の子ハイメ二世によって十三世紀後半に建設が始まり、14世紀にほとんどかんせいしたもので、中央身廊の高さ44メートル、それを九つのバッ…

図版 98 Casa de los Botines

カサ・デ・ロス・ボティーネス。 アントニ・ガウディ作、1891〜93年。 アストルガから50Km ほどにある、かつてのレオン王国の首都レオンに、ガウディは同時期もうひとつの作品を残している。グエイの友人である繊維商シモン・フェルナンデスと、マリアーノ・…

絵葉書のなかのグエイ公園

1906年以降のガウディの家

グエイ公園内に作られた2軒の住宅の一つ。 こちらはベレンゲールが設計したが、売れなかった。 ガウディ友の会の努力で家具などが集められ、現在はガウディ記念館

図版97   Palacio Episcopal de Astorga

アストルガ司教館、正面入口。 アントニ ・ガウディ作、1887〜93年。 グラウ司教は1886年10月16日、かってのレオン王国内の町アストルガの司教として当地に赴いた。教就任間もない同年の暮、司教館は火災を出して灰と化してしまった。翌年の2月末、司教館再…

グエイ公園陸橋

広場右手のアーケード 写真の左手にはグエイが住んだ家がある 勾配を斜めの柱で抑えている 柱は人体が何体か張り付いている ダブルのギャラリー 柱は渦を巻いてヴォールトを突き上げている 以上1972年3月撮影 以上2006年2月16日撮影 デパート、エル・コルテ…

図版94〜96   Colegio de Les Teresianes

サンタ・テレサ学院。 アントニ ,ガウディ作、1888〜90年。 近年の研究結果によれば、この建物の原設計は、ガウディではなかったことがわかっている。工事が始まったのは1888年9月1日だが、設計者は不明。翌年の3月にガウディが、すでに2 層まで工事が進ん…

グエイ公園広場

1975年の修復時の広場全景 以上1972年5月撮影 1973年撮影 1975年1月撮影 2007年11月3日撮影

図版91   Bellesguard

ベジェスグアルド邸、ステンド・グラス。 アントニ・ガウディ作、1900〜09年。 カタルーニァ人の血が入った最後の王マルティンI世人間王(Martin I、1356〜1410年)が14世紀の始めの頃ここに別邸を建てていたのが、現在バルセロ ナ市の山の手テイビダボの近…

グエイ公園広場ベンチ

図版 82〜89  Palacio Güell

グエル館,ダイニング・ルームと主階段ステンド・グラス。 ガウディは他の同時代の建築家と違って、いわゆる建築だけのデザインだけでなく、家具調度をはじめとする多岐な内装分野のデザインを直接手がけている。卒業と同時にデザインした街灯計画で、原寸模…

グエイ公園列柱室

1910年のパリのガウディ展で展示されたグエイ公園の写真

図版 78〜81  Palacio Güell

グエイ館、正面ファサード。 アントニ・ガウディ作、1886〜89年。 グエイ伯爵は、ガウディが建築学校を終えた頃に、すでにその才能を見い出し、庇護の手を差しのべている。具体的には1882年にガラ一フの狩猟小屋計画(後のボデーガ・テ・ガラーフ?)を、ガウ…

グエイ公園大階段

大階段右手には車寄せがある。ここでこの柱の周りで馬車がぐるりと回れるようになっている。

図版74〜77 Casa Vicens

ビセンス邸、ダイニングと小サロン。 構造は6, 5mと5 mという、スパンに置かれている荷重壁に木の梁を架けるという、当時ごく普通に使われた工法であり、構造、機能、審美が三味一体となって繰り広げられていくガウディのデザインの手法は、まだここでは…

グエイ公園エントランス部分

正面入り口には2つのパビリオンがある 手前は来客のレセプションのために作られたパビリオン その奥が管理人小屋 レセプションのパビリオン [ 塔の内部 屋上部 管理人のパビリオン 小便器 2006年2月16日撮影

図版70〜72 Casa Vicens

ビセンス邸、外観 アントニ・ガウディ作、1878〜88年。 初期の代表作のひとつであるビセンス邸は、まさしくこのムデハル様式(キリスト教支配下に残留したイスラム教徒が11世紀から14世紀につくり上げたスタイルの総称)の響きがそこここに見える。ムデハル…

図版66〜69  Finca Güell

フィンカ・グエイ、ドラゴンの門。 アントニ・ガウディ作、1884〜87年。 フィンカとは、スペイン語で放牧や農耕用地の広大な土地を指すが、グエイ伯が1869年頃に手に入れた現在のバルセロナの西端(当時はもちろん市外)に位置するフィンカは、30ヘクタール…

トレンカディス

trencadísはモデルニスモ期によくつかわれた工法であるが、必ずしもガウディの発明ではなく、伝統的に使われていたようだ。基本的には割れて製品化できないセラミックを使ったり、局面のある部分を水から保護、あるいは装飾するために細かく割ったセラミック…

2012年3月2日のグエイ公園

正面の入り口部分は工事中 グエイ伯爵が晩年住んでいた家は学校になっています。昼休み中でした 観光客で溢れて、もうこれはどうなっているのか 少なくとも昔のように市民公園ではない サグラファ・ファミリアもここからでも建設がすすでいるというのが一目…

図版58〜65 Parc Güell

図版58・59 Parc Güell グエイ公園、入り口脇のパビリオン。 2区画だけを売るという、事業としては大失敗に終わってしまうのだが、ガウディ自身、一時は高齢の父親とこの公園内に住んでいた。グエイ伯爵もこの園内の邸宅で世を去っている。彼らにとってのユ…

1972年3月のグエイ公園広場

図版57 Parc Güell

グエイ公園、遊歩道。 15ヘクタールほどの数地の中にガウディが計画したのは、15〜17エーカーの60戸の分譲地の造成の他、 入口に当たる部分に管理事務所、門番小屋のパビリオン、列柱群のある市場、その上部の集会場あるいは野外劇場となる大広場、礼拝堂、…

トレンカディス

野外劇場のスラブは円柱の上に円形ヴォールトを丁度お椀のように伏せて並べたように連置してつくられ、その間を埋めて玉石が敷かれてつくられているが、円柱は中空となっていて、その中空部分から筒が伸び、玉石に流れ込んだ雨水を飲み込むようになっている…

図版50〜54 Casa Milà

カサ・ミラ、屋上の彫刻群。 ペドロ ・ミラ氏はガウディが原案で考えていたタワーと、聖母マリア像のファサードへの設置を、“悲劇の週問”の教会焼打ち事件と関連され止めさせようとした。つまり教会建築のような塔や像を造られては、いつ、アナ一キス卜の焼…

グエイ公園の構造

これらの道路は山を切り開くのではなく、ガウディのいうように、そこから出た石によって築かれた陸橋の上につくられたものであった。それは自然を切り崩すのではなく、自然の一部と化すようなガウディのデザイン理念を示したものであろうし、一方には経済的…

図版45, 46, 47〜49 Casa Milà

図版45, 46 Casa Milà カサ・ミラ、外観。 革新的なのはプランだけではなく波打つ石の面のファサードも、この建物を創造的なものに仕立てている。カサ・ミラはバルセロナでは俗にラ・ぺドレラ、カタラン語で、“石切り場”を指す語で呼ばれているが、それはガ…

グエイ公園全体計画

ところが事業的には完全な失敗でわずかに一区画だけが売却され、二戸だけが建設されたにすぎず、第一次大戦をむかえグエイの経済的打撃にほうり出されてしまうのであったが、ガウディはこの建設に10年以上の歳月をかけたのであった。その第一期は1900年から1…

図版42, 43, 44, 45, 46 Casa Milà

図版42, 43 Casa Milà カサ・ミラ(ラ・ぺドレラ)、玄関ホール。 アントニ ,ガウディ作、1905〜10年。 バトリヨ氏の友人であるミラ氏は、パセオ・デ・グラシアという、メイン・ストリートとして開発途上にある34x56mの角地を手にしていた。ガウディが54…