2011-12-01から1ヶ月間の記事一覧

Tortosa 2011.12.24

パラドールの客室から夕方デルタからトルトーサの町に着く。山の上に城があり、この城がパラドールということだけど、街道から町を抜けて城にたどり着くのに結構渋滞がある。今のパラドールが城跡だった時には来ているけれど、パラドールとなってからは今回…

ベジェスグアルドの外皮

Deta del Ebro 2011.12.24

クリスマスはたいてい日本にいるのだけれども、今年は事情があって残ることにした。さて、クリスマスをどう過ごそうかということで、最初に浮かんだのが近場のパラドールでクリスマスを過ごそうということだ。近くというと北はコスタ・ブラバのがある。Aigua…

ベジェスグアルド屋上

修復が終わった、塔の最上部を飾るダブル十字 屋上はちょっとしたラべリンス カサ・ミラの屋上も楽しいがこちらも遊園地にしたいほど、レヴェル差を利用して楽しい空間ができている

ベジェスグアルドのリブ構造

屋根裏階のスペースは得意だ レンガを縦に使いリブを作る 居室部分はスタッコを塗り角を取っている

イルデフオンソ・セルダ年譜

1815年12月23 日バルセロナ,ビック近郊センテージャスに生まれる。 1832年バルセロナへ出,数学と建築を学ぶ。マエストロ・デ・オブラ(建築技術士のようなもの)のコースに学ぶ。 1835年道路・運河・港湾技術学校へ人学のために9月マドリッドへ立つ。 1836…

ベジェスグアルドのメイン・エントランス

ガウディはこの写真の段階で現場から手を引いて、内装は弟子のルビオが完成させた

6. セルダの後継者

セルダ案の後継者としてもっともすぐれた人物はペドロ・ガルシア・ファリア(Pedro garcia Faria, 1858〜1927年)である。彼はエンジニア兼建築家で,若い頃から衛生問題に興味を持ち,政治問題から都市改造のボス的立場にまで立った人物である。 24才でバル…

ベジェスグアルド玄関まわり

メインエントランス 両側にあるセラミックで覆われたベンチ 2008年9月24日撮影 ドアの上部には鉄細工で Ave Maria Purrissima sens pecad fou concebuda と書かれている これは聖母マリアの無原罪の身籠りを指しているわけだが、これが施主からの要望なのか…

5.セルダ案の分析

「人間の行為の産物というもの全ては,それを作った人の熟考の意に,そうでなければならない理由がある。偶然とかいうものは我々が疑を持つ,あるものを説明するためには容認できる。しかし,決していかなる概念をもってしても入間の行為を我々に満足げに,…

ベジェスグアルドの庭

広大な庭には遺構の他にもいろいろなものが散在している。ガウディのものかも正確には分からない。 入り口入ってすぐ左手にはこんなベンチと植木鉢がある 表面はトリンカディスで覆われている 2009年3月8日撮影 2008年9月24日撮影 給水用のコンプレッサーが…

4. セルダ案

セルダの都市計画の理論はその大著『都市計画の一般論』(“Teoría General de la Urbanización” 全3巻, 1867年、現在ではセルダ・アーカイブとしてhttp://www.anycerda.org/web/es/arxiu-cerda/fitxa/Teoria-General-de-la-Urbanizacion/115で読める)に提示し…

ベジェスグアルドの構成

さてベジエスグアルド邸は、そのガウディの個性で歴史も風景も消化されてしまっているとはいえ、もうひとつのガウディにとっていわば宿命的な様式であるイスラム様式が絡み合っている。それは玄関の吹抜けに繰り広げられる垂直空間であり、これは彫塑性に富…

3. 解決の可能性

幼少のセルダにとってはいかにバルセロナやマドリッドでの都市生活が煩わしい、また苦しいものであったかは想像がつく。ところがその反面、セルダは都市生活を窮地に追いやった産業革命や蒸気機関に対しては必ずしも悲観的ではなかったばかりか、蒸気機関の…

2.19世紀のバルセロナ市

バルセロナの産業革命は他のスペインの都市よりいち早く18世紀の末に起こった。それと同時に1844年頃、セルダが都市問題に興味を持った時期、バルセロナはイギリスやフランスのどんな工業都市よりも重大な危機に直面していたという。衛生問題がその最たるも…

ベジェスグアルドの時代

1900年のパリ万国博覧会はまさにアール・ヌーヴォー礼賛一色であった。無論スペインの中央へより、パリへと目が向いているカタロニアでこの動きがなかったわけではない。1898年米西戦争の敗北に中南米諸植民地を失ったスペインは、悲観的に伝統的ロマンテイ…

1.セルダとその時代

セルダの拡張部分、エイシャンプレの1992年の様子イルデフォンソ・セルダ・イ・スネェール(Idedefonso Cerdà i Suñer)は1815年12月23日バルセロナの地方都市ビック近郊に生まれた。その祖先は少なくとも15世紀からこの土地に居を構えていたといわれる。と…

ベジュスグアルドの引用

ランドスケープ的配慮は、ある意味ではガウディの常なる関心事であった。例えばビセンス邸の敷地に咲いていた黄色い花をセラミックのデザィンに残すというようなメランコリックな方法から、見知らぬアストルガの地を知るため司教に街の主要モニュメントの写…

バルセロナの知られざる都市計画家

イルデフォンソ・セルダ ガウディが死んで今年でちょうど50年である。この50年、出版物だけでも200に近い数がガウディについて出された。それは少なくとも何らかのガウディの生涯なり、彼の建築空間、あるいは芸術論を知る上で貢献したことであろう。ところ…

3/14 ベジェスグアルド邸 Bellesguard

1974年11月撮影ベジェスグアルドはカタロニア語で美しいながめという意味である。その名の通りバルセロナの山の手ティビダボの登り坂にあり、全市景と海とを眺望に持った土地で、古くは12世紀アラゴンのアルフォンソ二世による建造物があつたといわれるが、…

ベレンゲールが協同した建築家たちの作品

ベレンゲールの作品ではないかとされるものをいくつか見て回った。ここにアップロードした作品は少なくともメジャーな方で、兎に角ベレンゲールはたくさん仕事をこなしているのだ。これが、というものも残している。生活のためなのだろうか、基本的にクライ…

サン・パウ・デル・カンプ Sant Pau del Camp

以上2011年3月27日撮影 回廊 1972年9月撮影 この頃はアプスも見れるようになっていた 1972年9月撮影

サン・パウとロマネスク

70年代のラス・ランブラス 日曜日のラス・ランブラス サン・パウ・デル・カンプバルセロナを最もよく物語る通りの一つ、ラスランブラ通りからサン・パウ通りに入ると、ここがバリオ・チーノ(現在ではこの汚名を拭うためにラバル地区と呼ばれる)、中国人地…

グエイ公園の家とコロニア・グエイ

グエイ公園内の住宅はモデル住宅として建てられたが、結局は買い手がいなくガウディが買いとって住んでいた。 コロニア・グエイではガウディ一門が活躍しているわけだが、ベレンゲールとルビオは教会以外の施設を担当している。その中でもベレンゲールの作だ…

Part 9 ル・コルビュジェの評価

1908年建設中のカサ・ミラ(ラ・ペドレラ)構造はガウディ自身が語っているように,平面構成の変更が容易なように円柱でサポートし、これをパーティションで分割するというものである。その柱も3種類あり,荷重の大小と計画上での断面の大小などにより臨機応…

Berenguer グラシアのマーケットと市役所

自由の市場 活気がありました 秤もむろんアナログでした 1974年10月撮影 以上2011年7月11日改装されたばかりの市場 市場としての活気が昔のようにはないですね スペインもスーパーに客を取られてしまったようです旧グラシア市市庁舎 以上2011年9月22日撮影グ…

Part 8 モニュメント建設

このように,またそういった方法でつくられていったカサ・ミラは市役所へ提出されも図面とは随分違ったものとなったのである。 建築申請用の図面 ブランでは間仕切りのカーブが多角形に置き換えられている。しかしカサ・バトリョのブランが角を丸く削り落と…

ベレンゲールのグラン・デ・グラシア15番地の家

ダブルのトリビューンが2段になって付けられているのが特徴 トリビューンはステンドと鉄細工で飾られている エントランスの鉄細工はガウディ工房の特徴でもある

ベレンゲールのグラン・デ・グラシア77番地の家(1905年)

ファサードは淡い緑色のスタッコ仕上げ トリビューン、バルコニーはモデルニスモ期の典型的なエレメント 敷地は角地になっているので側面のファサードがありこれは開口も絞ってある バルコニーの下端はトリンカディスで保護 プーチならセラミックを割らずに…

Part 7 工事中止命令

カサ・ミラでは地階ができると,そこに10分の1の石膏模型が据えられた。もっともその模型も建設の進行と共につくられ,手が加えられてゆくのであつたが,それから図面を起こすのではなく,石工にそれを見せ直接10倍にさせた。しかも切石は目地面だけが削ら…