2011-07-01から1ヶ月間の記事一覧

クシャの修道院 Abaye de Saint Michel de Cuxa

953年創建、1035年建設。ロンバルディア派のロマネスクが力タロニアへ導人されるのは,オリーバ司教Oliva司教による。ビレネ一を挟んだスペイン辺境領でオリ一バは活発に修道院修復に努めた。1035年のクシャ修道院の再建には,当時の方形ののモサラべ式のプ…

モンセラの山

修道院のシンボルはこの黒いマリア。ヨーロッパには3例あるとかだが、ニスの色が変わって木が偶然黒くなったという分析結果がある。こういう話はあまり聞かない方がいいかもしれない 有名な少年合唱団 モンセラにはケーブルカーで

1/8 モンセラ

しかしこのキチガイ沙汰は、校内だけではなかったのである。既に日記で見たように自分の大学教授であるビジャール、そしてフォンセレとも数々の仕事をしているのだ。ビジャールとの仕事はバルセロナから60キロほど離れたモンセラ(Montserrat)と呼ばれるカ…

力ニゴの修道院/Abbeye de saint Martin du canigou (Sant Martí del canigó)

建設年代は地下聖堂が1000年奉納。カタロニア・ロマネスクはその成立の歴史からもわかるように、ピレネ一山脈をまたいだ現在のフランスにも広がつている。力二ゴの修道院はそのうちのひとつで、地下聖堂の上に会堂が重なり、2層のプランをもっている。部分は…

噴水計画と大学講堂計画

病院計画は学外で作業したということで、校則違反で落第点をもらうが、レウスの日誌には2度この課題のことに触れて、さらに別な部分には以下のメモが残されている。Lariboisière 17.236 Fr. Tiene 606 Nuevo Hospital Dieu sasará de 29.888 Fr. Blackburn, …

サン・パウ・デル・カンプ Sant Pau del Camp Part 2

このプランで見る限り正面左手には更にチャペルのようなものがあったらしい。絵葉書ではそれが確認できないが、正面上部も現在のものとは若干違うのでやはり絵葉書の頃まではあったのかもしれない。 Puig i Cadafalchによるアクソメスペイン・ロマネスクは二…

病院計画落第、追試の噴水計画で特優

設計講座の課題で"桟橋"と"県庁舎内のパティオが出されたときにはともに鉄骨を構造材として使っているし、オーナメントもゴシック的である。丁度このころ、ロージェントの"建築史"の講座を受けているのでこの影響を受けているのだろうが、ヴィオレ・ル・ドゥ…

サン・パウ・デル・カンプ, Sant Pau del Camp Part 1

サン・パウとロマネスクバルセロナを最もよく物語る通りの一つ、ラスランブラ通りからサン・パウ通りに入ると、ここがバリオ・チーノ(現在ではこの汚名を拭うためにラバル地区と呼ばれる)、中国人地区と呼ばれる一帯で、観光庁指定の旧市街ゴシック地区を…

La Rotonda

このモデルニスモの建物はSalvador Andreuの依頼によって建築家Adolf Ruiz i Casamitjanaの設計によって建てられたメトロポリタンホテル。着工は1906年、竣工は1918年という記録が残されています。その竣工とほぼ同時期に増築工事が行われました、その建築家…

1/7 学生時代のプロジェクトと作品

このように豊かな実務経験の持ち主であったガウディは当然のこと、設計の科目では優れた成績だった。初年度は"特優"、2年、3年は"優"であった。ほかの科目が全て"可"であったから良い成績であった。ただしこの他例外に"建築材料の応用"でやはり"優"をとって…

試練なのか学習なのか

日誌はここで途切れている。このころのガウディは粗末な服をまとい、級友たちからは課外の仕事で得た収入で両親を養っていると思われていた。建築学校の生徒は基本的に中産階級家庭の子息と決まっていた。血縁関係がなければ卒業しても仕事が来ないからだ。…

ビルバオ

ラファエル・モネオのDeusto図書館 マリスカルのGran Hotel Domine レゴレッタのシェラトン ロバート・スターンのショッピング・センター 1997年9月には完成していたエスカルドゥナのマスタープラン もうこの頃の計画された物件はほとんど完成したと言ってい…

ガウディのBlog併設しています

http://d.hatena.ne.jp/Arquitecto+AntoniGaudi/

イソザキ・アテア

右手がカラトラバの歩道橋。ツインタワーの間は市心へと繋がる放射線状の道路がある。 この道路に沿っての大階段にはチジーダの彫刻。これはチジーダ最後の作品になった。 その他は屏風のようなブロックが建てこまれ、パブリック・スペースを作っている。 右…

日誌 Part 2

1月4日旅館カタルーニャで建築家のタイトルを手にした先輩たちに奢られてガウディは食事をとった。 現在は普通の家になっていてるようだが、ここに旅館の後はLa Vanguardiaというバルセロナに本拠のある新聞の印刷所兼編集室が1881年から1888年まであったら…

ビルバオといえばやはり

昼食はGran Hotel Domine、これの屋上のレストラン。あいにくの雨でしたからテラスではなく中で食べました。最近シェフが変わって一段とおいしくなりました。 最初は巨大なエビ。 次はたらの頬の煮込み 続いて腸の煮込み メインはやはりたらの焼物 普通はメ…

日誌 Part 1

Dietario III(Laura Mercaderによる)21日 私の製図板に向かう、それにパドロ氏、ボーラス氏に時間が取られ授業欠席。(Padrós & Borrás社のことで、ガウディはこの工業用機械の商社でドラフトマンとして働いていた) 22日 モンセラ(Montserratでビジャールは…

エウスカルドゥナ広場に続々完成、Bilbao

この一帯の都市計画を担当したペリのデザインしたタワー。真下が市民からは至って評判の悪いFeraterの集合住宅。右手が人気のあるロブ・クリエの集合住宅、

1/6 日誌

ところが実務をしなければならなかった理由がほかにもあった。というのも家族はふたりの息子を学校に行かせるのにわずかばかりの母親の財産を売っていたのである。しかもそれは十分ではなかったらしい。ガウディが切体学の講座を落第したのは石膏模型を作っ…

ロブ・クリエのビルバオ集合住宅

ロブ・クリエの最新作がビルバオの新しい市心に完成していました。この都市計画はシーザ・ペリ。クリエのマンションはこの広場に面する一等地にありますが、ビルバオ市民からは非常に人気がありマンションも売れ行き好調ということです。まあ、無論プロから…

ガウディの課外での活動

建築以外の書物では古典、シェークスピアの戯曲、スペイン黄金世紀の文学に親しんでいたといわれる。また。ロージェントの企画したモニュメントの見学会にも参加していた。この会は1876年になって学術的遊覧カタルーニャ協会Asociació Catalanista d’Excursi…

学生ガウディ

当時のガウディはこう考えていた。『様式の誕生は単にいくつかの美学的理念の所産ではなく、それを結果とする政治形態、社会体制に、そして繁栄に由来するものである。』と。それゆえ彼はドグマを振りかざす講義には興味がなく、むしろ歴史や経済というもの…

ビルバオへ カラトラバ空港改築

白い鳩という名前が付けられている ロビー階、搭乗口はこのスロープで下に降りる 改築部分 チェックイン・カウンターのあるホール

ロージェント

この大学の校舎は建築学校の学長でもある、エリアス・ロージェントの設計になっている。彼は建築学校設立の最大の貢献者の一人であるばかりか、当時の建築界でのボス的な立場をとっていたロージェントへのこの設計依頼は当然なことのようだった。ロージェン…

バルセローナ空港のボフィール, Barcelona

92年完成されたターミナル、現在ではターミナルT2として残されている 搭乗口 新しいT1のターミナル ロビーは1000x1000のタイル、黒で光沢があります 昨日は明け方に集中豪雨があり、雨漏り 延々と並ぶ搭乗口 トップライトが気持ちがいいですね

Juan Navarroの人類進化博物館、Burgos

コンペ案

1/5 建築学校

予備課程の理論力学の単位を残したまま、当時のバルセロナ港近くのネオ・クラシック様式の取引所(Llotja de Mar)内2階にあった県立建築学校の入学許可を得たガウディは、まずもっとも初歩的であり、また反理論的な科目“製図”、“人物デッサン”、“建物全体デッ…

1/4バルセロナへ

ガウディはいまだ中学校の最終学年に在学中にあったのだが、丁度去っていった友人たちを追うかのように1868年バルセロナで勉強している兄のフランセスクを頼って、大都会へ出ていくのであった。 そして翌年6月にはバルセロナで中等教育を終えるが、当時の学…

Grimshawのガリシア銀行文化センター、La Coruña 1998-2004

銀行に展示されたセンターの模型。 1999年12月2日撮影 工事中の正面ファサード ガラスのスクリーンには映像が映っています 完成時の正面ファサード 正面とは打って変わって、裏側のファサードは周辺の建物との取り合いは面白いことになっています。 左手の建…

RogersのLes Arenas(旧バルセローナ闘牛場)

1991年のスペイン広場、この当時闘牛場はイベント・ホールとして時々使われていただけです。町の反対側に実際闘牛場として使われている施設が別にあります。まあ、これも今となっては時間の問題でカタルーニャでの法律が変わり、闘牛は禁止となりますから閉…