スペインのオレオ/Hórreo en España


Cambarroのオレオ。海岸線にあって、洗濯の干場にもなっていました。

Carnotaのオレオ。修道院附属のオレオで、やたらと長くもちろん使い勝手が悪そうなオレオです。左手に見えるのが鳩小屋。無論食用です。1992年3月撮影

ネズミ返しを下から見たところ、これは奄美大島にもあるようです。

最近はオレオは保存され、こんな今にも崩れるのを待つばかりというのはなくなりました。

アストゥリアス地方のオレオ。これは屋根もオリジナル。

San Andrés de Valdebarcenaのオレオ。2009年5月29日撮影

イベリア半島北部の高床式穀物倉庫Graneros elevados en norte de Península
A+U 1977年3月号 Publicado en A+U número de marzo de 1977

カタロニア地方の天然スレート葺きのマシア、レバンテ地方の白壁に藁葺きのバラッカ。ラマンチャ地方の日干しブロックに松の小枝葺きの家。アンダルシア地方の地中の家。マジョルカの土壁にオリーブの梁を架けた家。それにスペイン北部のオレオと呼ばれる穀物庫。
近頃、失われていく民家への郷愁や、多層化していく集合住宅への反発か、これらの民家建築に関心が高まり、とくに都市生活者には週末住宅、あるいは別荘として再評価され、驚くほどの高価でそれらが売買されている。
たとえばカタロニアのロマネスク教会と、その壁画で知られているタウイ村Taullの民家など、廃屋同然でありながら一軒1000万、1500万円という値段で取引されるという。しかも買い手が多くて、売り手を見つけるのが大変だと言われている。この額はバルセロナ市内で30坪前後の新築アパートを購入できるぐらいだからいかに高価か想像が付くと思う。もっともこれらの民家は廃屋同然とはいえ、おそろしく頑丈な構造で生活環境としては申し分ないものであるという。
スペイン北部のオレオHóreo、ポルトガル北部のエスピゲイロEspigueiroは一見して校倉造りとの類似性から日本でもよく知られていると思うが、スペインでも最近翻訳されたバーナード・ルドルフスキーの『建築家なしの建築』による反響やら民家ブームに乗って人気があるようだ。
それらはともに雨や雪、鼠、害虫から主な収納物である玉蜀黍を守り、通風に留意した高床式の穀物庫で、玉蜀黍の産地全般、すなわちスペイン北部、ポルトガル北部に広く分布している。とくにスペインのアストゥリアス地方(オビエドを中心とする)とガリシア地方(サンティアゴなど)ポルトガルのミーニョ地方(ブラガンサを中心とする)などがそうである。
ガリシア地方とポルトガル北部の類似性はガリシア語とポルトガル語の近似性にも見られるが、12世紀以降は一続きであったことからも、現在でも茶色で美しい角と目を持ったガリシア牛が両地方で農耕に使われていることからも確かめられる。同様にガリシアのオレオとポルトガル北部のエスピゲイロもその機能形態、構造上同類で、呼称の違いがあるだけである。
ところがアストゥリアス・オレオとガリシア・オレオとではかなりの違いがある。アストゥリアス・オレオは木造、プランは方形であるのを常とし、高床になっている部分が牛車をはじめ農耕具置き場として使えるように広々としている。それに玉蜀黍がベランダのようなところの棚に干されるだけで、オレオの内へは入れない。内部はもっぱら雑穀類の収納とその涼しさを利用しての天然の冷蔵庫として使われている。
一方ガリシア地方のオレオ、あるいはエスピゲイロは石造でプランは矩形、屋根も切妻となる。しかも玉蜀黍の収納という目的のみに存在する。元来、ポルトガルを含めてガリシア人は信仰心に篤く、それも農耕信仰だから、農作物の収納庫としてのオレを神聖視しているために多様化しなかったのではないだろうか。ガリシア・オレオには必ず十字架のモチーフがあるのもそんなガリシア人を物語っているかのようである。
もっともアストゥリア地方でも玉蜀黍のよく採れる地方ではベランダに干すだけでは収まらないので、内部収納式の専用倉庫が生まれた。それがカバーソCavasoで、最下部は金網、あるいはもう少し恒久的な材料で塞がれて、鶏や兎のような小動物の飼育用に当てられ、その上が玉蜀黍収納に使われ、さらに上部が鳩(食用)小屋となっている。時にはカバーソとオレオが並んで建てられている農家もあるが、きわめて自然な知恵から生まれたのであろう。
これらの3種類の穀物倉庫に共通して見られるのが「ねずみ返し」である。高床の柱と倉の土台の中間にある水平材だが、石や天然スレートでできた皿状のもので、柱は登れても鼠や虫類もこの水平材では爪もたたず、重力に逆らうことができず地上へ落ちるというしかけである。
さて、オレオの起源であるが、現在のもののように単純化され、合理的構造に洗練されるにはかなりの時代を遡ると考えられる。一説にはセルティベロ(イベリア半島ケルト族)の頃というから、少なくとも数千年前ということになる。というのもこの地方一帯にはケルト族が先住しており、その遺跡もコアーニャCoaña(オビエド県)やブリテイロス(Briteiros)などで大規模に発見されており、その優れた石材加工術の延長線上にオレオを置く人も少なくない。ところが一方には、玉蜀黍は新大陸からもたらせられたという事実がある。むろんそれ以前にもヨーロッパには玉蜀黍はあったが、10センチにも満たない劣等品種であり、オレオを必要とするほどの収穫が会ったとも考えられない。そうすると、オレオはほぼ16世紀に造られ始め、17,18世紀に完成されたと見たほうが妥当であろう。
『建築家なしの建築』で紹介された林立するオレオおある村リンドーゾ(Lindoso)は一方に谷があり、谷よりに17世紀の城があり、山よりのスロープには村。その中間の平地には60ばかりのオレオがひしめき合っている。畑はこれらを囲むように広がっている。
またガリシア地方のコンバーロCombarroという半農半漁の村には、海岸に沿って20ばかりのオレオが並べられているが、これらはおそらく風通しのよい場所をオレオが必要とし、村内の最適地に群化していったものと考えられる。むろん火災時にも村と距離があり群化していた方が有利であるに違いない。
さて、オレオ個々の通風であるが、まず高床にすることで地面からの湿気を防ぎ、壁面にさまざまな方法で通気口をつけることで解決している。ガリシア。オレオもエスピゲイロ構造体は石でスケルトンを組み、そこに石、煉瓦、板などのパネルを組み込むのである。最も安上がりなパネルは板で、木材豊かなアストゥリアス地方のオレオにもよく見られる。さらに手が込んでくると板の両側に「しゃくり」がつけられ、通風をより効果的にしている。さらに耐久性のある石材を使い、これに穴が開けられるだけというものから細工のあるものまであるが、最近では煉瓦が一番多い。耐久性と経済性とそれに素人でも積めるからである。一番簡単なのは市松に重ねたもの、それをずらしたもの、また、ごく最近では穴あきの煉瓦をべったり張ったものまで出てきた。なにしろ農家なら一軒につき一棟は必要なものだから、最もポピュラーな建材が選ばれるわけで、いずれ近い将来プラスチックパネルも登場するかもしれない。
その意味では屋根材も同様で、おそらく藁葺きが原型であり、理想的でもあるが、石、瓦、天然スレート、今ではアスベルトも使われている。
おもしろいのはリンドーゾのオレオのように群化し、量産されると、あたかもプレファブ化したように部材が揃ってくることである。扉の幅、石材の間隔(これは1間のものから5間、6間と連続したものもある)。屋根パネルの大きさ、梁のスパン、とくに石の壁パネルがそうである。本当のところは人体寸法や、部材の材質から割り出されて定型化していったのだろうが、規格化とまではいたっていないようだ。
リンドーゾの村を訪ねた時、集まった9人の子供たちの5人までが素足だった。そして村では城を修復しホテルを作っていた。そのうち観光客も増えて子供たちは靴をはけるようになるだろう。
スペインとポルトガルの国境にある村では今でも共同体生活を送っているところがある。村は国境を境にして二分され、それぞれ教会を持っている。その村の中央に共同所有の畑がある。畑は共同で耕し、収穫も共同分配されるという。ところが何年か前から貧しさに疲れた村民のうちフランスへ出稼ぎに行くものが出てきた。彼らは今ここに帰りつつある。フランス・フランと私欲に満ちた物質文明を懐にして。
民家とは常にアノニマスなものであり、それだからこそ生き続けてきた。ところが世界は変わりつつある。あたかもそれらの生きることを拒むかのようだ。

ポルトガルのコーン倉庫エスピゲイロ

ポルトガルリンドーゾのエスピゲイロ群

村には60ぐらいのエスピゲイロが群がっています。城側から撮影。奥には村が見える。


いまでは子供たちも靴をはいているでしょうが、当時は全ての子供までいきわたっていませんでした。

いずれも1976年7月撮影