ジュジョールⅡ ネグレ邸/Can Negre de Jujol

サン・ジョアン・デスピという町はバルセロナの郊外にあるのですが、ここでジュジョールは一時期市の建築官となり、自宅すらも作っています。このカン・ネグレは彼の間違いなく代表作のひとつに入るわけですが、改装です。もともとカタルーニャではマシアと呼んでいるのですが、いわゆる農業を営むための民家です。これをジュジョールは超モダンな現代建築に変えてしまいます。ジュジョールが最初にこのマシアを見て大まかな寸法を入れたスケッチが今も残っていますが、躯体を残し前面改装した今の姿は彼の器用さが見て取れる。トーレ・デ・−ラ・クレウでは外装にポリクロミーを使い、このカン・ネグレでは青を基調に、礼拝堂では金を塗りたくっている。

カン・ネグレの正面ファサード 
この頃はほとんど廃墟化していました。

トリュビューン
1978年撮影

正面左手の農機具を解体し廃物利用した門扉。何故か近年の改装では一部がなくなっています。
1978年撮影

修復工事が終わってシビック・センターとなりました
1999年10月18日撮影

内部にある礼拝堂。
2008年3月16日撮影

市役所の所有になってからフェンスができてしまいました。
2008年3月16日撮影

2008年3月16日撮影

1999年10月18日撮影

1999年10月18日撮影

1999年10月18日撮影

1999年10月18日撮影


改装前のマシア

空間の魔術師ジュジョール
ガウディがなぜ現在論じられなければならないのかという議論の前に、ガウディへの関心と興味ばかりは先走りしてしまった。サグラダ・ファミリア教会に備えてある訪問者のサイン帳は日本人の名前で埋め尽くされているし、そこで働く日本人さえ出てきた始末である。これは大変な危険さえ孕んでいるとはいえ限られた範囲で書き進められて、その延長上に我々の建築を見出そうとしてきた現代建築にとっては、ガウディをいう異質な個性の出現は無駄ではなかったはずである。ところが、このヨーロッパで忘れられた建築家はガウディだけではない。世紀末を前後して、このスぺイン。カテルーニャには途方もないおもしろい建築家がいたのである。
ホセ・マリア・ジュジョール・イ・ジベルトのそのひとりである。ジュジョール田舎教師の息子として1879年、つまりガウディに四半世紀遅れて、南カタルーニャタラゴナに生を受ける。学生時代からガウディに傾倒し、建築家になってからもある時期協働を続けるがが、ジュジョールがいまだ学生の頃、彼の才能を見出し、仕事を与えたのは他ならぬガウディであったという。確かにジュジョールなくしてはグエル公園のベンチや市場の天井モザイクもできなかっただろうし、カサ・ミラの完成すら危ぶまれるのである。少なくともグエル公園ジュジョールなしでは、今の姿ははいはずである。
後には父の教育者としての血を引き継いで午前中は建築学校、午後は職業学校で教鞭をとり、その間建築家としても、数多いとは言えないまでも作品を残している。そしてあたかもガウディの独身主義を追従するかのように48歳まで結婚していないのだが、ガウディの死後、それに失望したかのようにその翌年結婚生活を始めている。Jというイニシャルを無理やり歪めて十字に書いてサインしたりしたほどのカトリック教徒であり、形態の自由な広がり、豊かな色彩の輝きを信奉した地中海人であったともいえよう。ジュジュールの卓越した才能はガウディとの協働で示したカサ・ミラのバルコニーの鉄細工やグエル公園のベンチで明快なように、その形態の開放と色彩の豊饒にあり、我々が見るならば、結果的に今世紀初頭の前衛芸術運動との関連に浮かび上がってくる。しかしジュジョールの方年代的には先行しているのである。彼はコラージュ以前に以前にコラージュをつくり、ダダイスト以前にダダイズムを、シュールレアリズム以前にシュールレアリズムを実現した建築家なのである。
彼は天井のスタッコ仕上げを波打たせ、赤や金銀の斑点で飾り、H、L鋼を組み合わせた門扉のうえには物置から不要となった道具類を引っ張り出して貼りつけ、粗末な農家を原色で塗りたくり、抽象的なオーナメントやグラフィズムで飾りつけ、ファサードはラフスケッチのような掻き画を引き、不整形で、非コンポジションなエレメントとさえ思われる表情豊かな開口部をそれに添え、セラミックの断片でもって、周到な方法に翳りと暈しと色合いをヴォリュームに添えたのであった。バロック、ゴシック、ネオ・クラシック、果ては日本様式までが彼の市中にあって解体し、再び構築されている。
彼の彫刻は具象的な表現にあるにもかかわらず、赤、黄、青のブチで光と影とに塗り分けられており、彼の絵は切り紙と張り紙の上を斑点で仕上げられ、さらにそれは直線も角すらもない額に入れられ、彼の家具は踊りだすほどの動きで均等を保っているのである。ジュジョールの創り出すこういった空間はガウディの構造的理念や、審美的な規範という鎖に縛り付けられた空関より、更に自由であり、奔放であり、気ままで、直感的ですらあるといえよう。
ジュジョールは講義で喋ると同時に、時には両手で黒板に図解していったというし、向かい合って話をしながら見事なスケッチをみせたし、建築依頼主との対話中、手短にある紙片を引き寄せて、アイディアをまとめながら図解してみせ、時にはそれを他の紙に貼り付けて図面にしあげたという。この並外れた彼のスケッチの力量は建築の手法を、思考から試行へよりも、試行から思考へと逆流させることができたのである。ジュジョールの建築空間のとりとめのないほどの広がりは、そこから生まれているのかもしれない。ちょうど魔術師が巧みなトリックで、観客の逆手をとって彼の世界へ引きずり込むように、ぼくらをその魅惑的で魔術的な空間へと呑み込んでしまう。

ジュジョール生誕百年にあたり、この小文を果敢な建築家に捧げる。

中部建築ジャーナル 昭和54年4月1日
P.O. BOX 20 ヨーロッパ建築通信 No.4
カン・ネグレ


ジュジョール・イ・ジベルト、ジョセップ・マリア(1879-1949) Jujol i Gibert, Josep Maria
ガウディの弟子としてカサ・ミラグエル公園などに協力する。1911年にはシュールレアリスティックなマニャックの店をデザインしているほか。前衛派出現前に前衛的な建築作品を残している。ガウディも彼なくしてはカサ・ミラの天井のしっくいやバルコニーの手すり、グエル公園のベンチなどはできなかったであろう。
TOTO出版刊『我が街バルセローナ』より
P241