1/2 家族と幼年期

アントニは5人兄弟の末子として生を受けたが、必ずしも兄弟運は良くなく、4人の兄姉は全て若死にしてしまう。長女は1844年生まれで、名をルゥゼール(Roser)、成人してアルコール中毒ボヘミアンで音楽家と恋に落ち同名の女の子を残して亡くなる。その子は叔父であるガウディと、祖父に育てられるが、父親の血を受けてか知能の健全な発達を遂げず、養育者ふたりを悩ました。次女マリア(1845年生まれ)も若くして死に、長男フランセスク(1848年生まれ)も乳飲み子のまま世を去っている。次男は同名のフランセスク(1851年生まれ)がそれでもバルセロナで医学を学び将来を嘱望されていたのだが25歳でこれまた他界している。近年では精神病理学の通説では死んだ兄弟の名前を受け継がせるのは悪影響を与えよくないとされているわけだが、スペインでは長男が親と同名というのが慣例であるのでフランセスクの名前が付けられた。
アントニ自身も乳児の頃は内臓が弱く、両親を心配させ挙げ句の果てに離乳期を延ばさねばならなかった。そのうえ6歳の頃にかかったリューマチはそのまま持病となり、晩年までガウディを煩わしている。
ガウディ家はアントニの誕生後しばらくしてレウスへと出るが、病弱なアントニだけはロバで釜師の庵へとしばしば静養のために通わなければならなかったと言われている。
この全ての全ての兄弟の短命、自身の子供の頃の病弱・・・・、晩年のガウディの特異な食生活などへ間違いなく大きな影響を与えているのは間違いないだろう。
幼稚園は屋根裏にあったフランセスク・ベレンゲールのところに通うが、そこで終生の友人エドゥアルド・トダ(Eduardo Toda, 1855-1941)に知り合う。ふたりはその後レウスの病院内にあったラファエル・パラウの学校へと進むが、このあたりのことは、あまり記録されていない。しかし級友たちとの遊戯がアントニの健康を好転させて行ったことは確かなようである。また、この時代の挿話がひとつ残っている。それは教室で先生が「鳥は飛ぶために翼をつけています」という説明への反論で、「うちの鷄はとっても大きな羽があるけど飛べません。」と言ったことであり、この幼児の釜師の庵での鋭い観察は後年ガウディに『自然こそ我が師』と言わせるのである。

Casa Navàsの壁面に取り付けられたトダここに生まれるのプレート。

外交官、歴史家、文学者、パトロン、書誌学者
エドゥアルド・トダ・イ・グエイ
1855年1月9日
ここに生まれる
1940年4月26日ポブレットの修道院に没する
レウス市民は生誕150周年にこれを捧げる