ポブレ修道院

残念ながらガウディの回答は残っていないが、エスコラピオスの学校へ入ることになったということは、ガウディ家の経済状況を物語る。後に兄は医学、姉はボヘミアンの音楽家と結婚ということだけをみるとあたかも裕福な家族のように見えるが、釜師の庵ですらリウドームス市がマシアと呼んでいるにもかかわらず実際は建坪10坪ばかりのましな農機具小屋程度な家である。たとえレウスの市民がいうサン・ジョアン通り4番地の家にしてもどこにでもあったような家であった。しかし逆に貧困というわけでもなかったであろう。なぜなら当時の貧困は子供を学校へ通わせることほどなまやさしいものではなかったはずだからである。いずれにしろ両親の教育に対する理解があったことは確かである。
学校生活は幼友達トダ、そして新しく仲良くなったホセ・リベーラ(José Ribera i Sans, 1852-1912)と三人組を作っていた。トダはクラスの優等生で他の二人もなかなかの成績だったというが、彼らの企てたことは、郊外への遠足や校内外で催された劇の企画やら、学校の誌の発刊であった。この企ての中でトダやリべーラは脚本やら、作文を書くという役目を果たしたが、ガウディの方はといえば、もっぱら学校誌でイラストを担当し、演劇では舞台装置の製作に専念し、郊外への遠足では、自然の一部と化したようなローマ時代のかまどの跡などの見学を好んで探したとい言われている。11歳でこの学校に入った時には、まだ将来何になろうといういうはっきりした希望も目的もなかったが、3年生になったころにはそういった、いわば美術、芸術的な指向を示していくのであった。そして丁度このころポブレ修道院(Reial Monestir de Santa Maria de Pobletの修復計画を立てるのである。




Lampérezによるポブレ修道院プラン

Elìes Rogentによる修道院チャペルプラン