ポブレ修道院修復計画


ポブレ修道院はレウスから40キロばかりのところにあるシトー派の修道院で、サンタ・クレウス(Santes Creus, 1150)のそれと並んでカタルーニャ地方の二大修道院のひとつであるが、1835年の勅令(いわゆるメンデサバルの法というもので、教会の所有地を国有化し、競売にかけるという
永代所有財産解放令である)により財産が没収されてからというもの、奪略にもあい、修道院施設は廃墟化されていた。それでも1930年には再建工事が始まり、1940年には修復された付属教会堂でのミサも開かれるようにまでなり、さらに1940年には荒廃を忍んだ僧侶たちが立ち戻り、修道院の再興を図った。もともとは1149年創設という由緒ある修道院であるのはアラゴン王国の歴代王の墓所であるということからも分かるが、現代では1991年にはユネスコ世界遺産に登録されている。
修復計画立案のなりゆきは三人組のひとり、リベーラがレウスへ引越しの前に修道院から3キロほどのエスプルガ村に住んでいたことから始まる。少年は廃墟化していた修道院の建物を見て知っていたが、それをレウスで新たに知り合ったトダとガウディに話したのだろう。三人組はすっかりその話に夢中になり、修道院修復計画を作るのを思い立ったのであろう。まず三人組は当時出版されていたガイドブックをたよりにその構成を知り、1869年の夏にはエスプルガ村にある、リベーラの姉の家を頼りに、修道院の見学に出掛けるのであった。現在ポブレ修道院にはこの1870年7月の26日という日付入りのトダの名前が入った手書きのプロジェクトが保管されているが、この内容が実に卓越している。これには建築的な提案も含まれているし、文献をレウスの図書館で漁って、膨大なリストも添えて、修復の手助けになる文献も調べあげていて、修復の歴史的あるいは文化的な意義、現状の分析などを解説しているものの、観光収益に目を付け、むしろ、この収益で修復工事をし、敷地内での農業、手仕事などを自営して自活運営させようということがこと細かく、具体的な数字を挙げながら書かれている。つまり事業計画書として十分役を果たす内容である。この手書きがあまりに良くできていて、それが逆に15歳の少年たちが本当に書ける事かが逆に疑わしくなってくる。

当時出版されていたBufarullの書いた修道院のガイドブックに出てくる図面の上に描かれた。