1/6 日誌

ところが実務をしなければならなかった理由がほかにもあった。というのも家族はふたりの息子を学校に行かせるのにわずかばかりの母親の財産を売っていたのである。しかもそれは十分ではなかったらしい。ガウディが切体学の講座を落第したのは石膏模型を作っての形態解析をしなかったためであるが、ガウディには石膏が高価すぎたためであった。
建築学校へ入る前には工作機械の商社でドラフトマンとして働いていたが、建築学校の初年にはその教師である建築家ビジャール、マエストロ・デ・オブラのフォンセレのもとで働いた。
この間の事情をよく物語るガウディの日誌を見て見ることにしよう(26枚目の白紙のあと日記は始まり93枚目まで書かれているが、1876年11月から1877年1月まで含まれている。)
87年の“ガウディの生涯”執筆時は当時出版されていたガウディの大著Cesar MartinellのGaudí su vida/su teoría/su obra, (ガウディ その生涯/その論理/その作品)、1967年Colegio Oficial de Catanuña y Baleares刊, の493-495ページのテキストによっているが、もともとの原稿は鉛筆の走り書きで、紙の色が変わっていたりと非常に読みづらく、判別できない個所も多々あった。近年Laura Mercader, Antoni Gaudí Escritos y documentos(アントニ・ガウディ 文書とドキュメント), 2002年刊でガウディが残したテキストを解読し集成して豊富な注を付けて出版している。ガウディが残した数少ない文章のうち、装飾日記と俗に呼ばれている日記が一番よく知られているが、ここにあげたのはこの著者メルカデールがDietario IIIと呼ぶものである。同本の103-112頁に掲載されている。Dietarioというのは日誌のようなものでいわゆる日記Diarioとは性格が違うが、ガウディは時間給で仕事をしていたらしく、誰誰のところで何時間仕事をしたということが主に書かれている。だから日記ではなく日誌の方が正確であるかもしれない。
また、現在保管されているレウスのガウディ・センターではスクリーン上でこの日記が読めるようになっている。同館のオープン時には限定でこの復刻版も出された。


レウスに保管されている日記のレプリカ