フォンセレのシウタデーリャ公園計画

公園は規模も60ヘクタールに及んでいて緑地のほとんどなかった市には画期的なことであった。1871年に公園化としての工事は着工されたが案の定、74年、さらに78年にはマドリッドのサン・フェルナンド・アカデミーからコンペの主催者、そして工事の管理者であるバルセロナ市へ抗議が持ち込まれた。この抗議の根拠というのは公共事業建設には建築家の資格を持たないものが当たることができないという法律である。このカタルーニャ中央政府からの独立精神をも復活させようという意気込みを阻止しようとしたのであった。ところが市はこれに対して黙り込んだのだ。なぜか。それは中央政府から独立しようという気運があり、中央政府が口を挟むことではないというおごりもあっただろう。また、一方では従来の官僚機構の馴れ合いのコンペにたいし、良いものが勝つということを伝えたコンペであった。
建築家をさしおいて、一介のマエストロ・デ・オブラであるフォンセレがこのコンペを勝ったというのはガウディを引き付けるものがあったのではないか。当時は今以上に建築家の世間的な地位は高く、建築界での言わば技術屋である、マエストロ・デ・オブラがこれを負かしたのである。ガウディ自身もしがない釜師という社会的な地位もない、素生の知れない人間であった。ここに何かを引き付けるものがあったのは間違いがない。日誌中にも建築家であるビジャールよりも、一介のマエストロ・デ・オブラのフォンセレを尊敬している節が書き込まれている。