マタロ通い

いずれにしろこの時期には仕事とどうやら恋愛を兼ねても頻繁にマタロを訪れるのであった。
マタロの協同組合結成の動機はカタルーニャ蒸気機関の導入(1836年)と時を同じくした頃で、左翼の連中によって発案され、マタロ在住の労働者たちによって受け入れられた。後の社会変動に設立時期は伸びたものの、1856年に正式に組合は設立され、69年には組合員数150人、資本金5千ペセタを数え、繊維製品をつくっていたが、わずか2年後にはカタルーニャ工業の好況の波に乗って資本は倍増した。しかしその後しばらくまで、依然と工場はマタロからは30キロも離れた、19世紀末に合併しているが、当時はバルセロナの隣接の町であるグラシア市Gràciaにあったのであった。この不便さと好景気続きに自分たちの工場を建てようと、1878年にマタロに建設が始まった。その更に4年後には土地を買い足し、20534平方メートルの敷地を得て、2307平方メートルの建物を建設する計画を始めたのであった。
その計画とは工場を始めとして、30棟の労働者住宅、工場長住宅、組合の共同施設としてサロン、バー、ジム、ビルヤード・ルーム、図書館、学校、集会場の建物が考えられた。ガウディがこの計画をいかに重視していたかは、プロジェクトを1878年のパリの万国博覧会へ出展していたことからも分かるし、また共同組合思想への個人的同調があったとも考えられる。あるいは一介の釜師の息子がどうやって仕事を得られるのか、先輩であるドメネク・イ・モンタネール(Luís Domènech i Montaner)は出版社を卒業すぐに設計しているが(1879〜1885年)、これは兄のラモンからの設計依頼で、その後の数々の設計依頼も名門出のドメネクだからこそ仕事が数々舞い込んできたが、ガウディは生まれた時にアウトローとして出発せざるを得なかったのだ。