サグラダ・ファミリア教会御受難のファサード


左手に見えるのがご誕生の門、中央がアプス、さらに右手にはご受難の門がある
2011年10月23日撮影

1882年3月19日,サン・ホセの日,当時のバルセロナ郊外サン・マルティン・デ・プロベンサルス市に「サン・ホセ崇拝者精神協会」は一つの贖罪教会の最初の礎石を置いた。
この日の協会の記録によれば,「この贖罪教会は……聖家族の大いなる名誉と光栄のためであり,弛緩なる気力をそのなまぬるさから目覚めさせ,信仰を高揚させ,勇気と助力を仁愛に与え,国を憐れむ神に捧げる。…」。
これがサグラダ・ファミリア教会である。礎石の据えられたのは5エーカーの方形の土地で,今でこそ中産階級のの中層住宅が建ち並んでいるものの,当時はまばらに建った家、畑。そしていくつかの小工場があっただけであった。サン・ホセ協会の発足ほそれより16年遡る1866年で,バルセロナで書籍業を営むジョセップ・マリア・ボカベージャ・ゲルダゲール(Josep Maria Bocabella Verdaguer, 1815〜1865年)の提唱によっている。
1874年頃、彼は信仰の発露を教会建設の建設に求め ,1881年12月31日、17万2千ペセタでこの土地を得たのであるが、教会の建設案はボカベージャのアイディアではナザレの聖家族の模型を持つイタリアのロレト(Loreto)のバシリカを模倣するというものであった。それを教区建築家に当たるフランセスク・デル・ビジャール・ロサーノ(Francesc P. del Villar Losano, 1828〜1903年)がネオ・ゴシック、ラテン十字、3身廊形式に計画を変更した。ところが、暫くしてこの教会がすべて讀罪によつて運営されるため,協会と建築家の間に不一致が生じ,デル・ビジャルは辞すことになった。後任として教会建設委員会のジョアン・マルトレイ(Joan Martorell)はアントニ・ガウディ(Antoni Gaudí)を指名したのであった。1883年11月3日のことである。ガウディ当年31歲。
この時,すでにクリプト部分の建投は進んでいた。ガウディによる最初のデザインはサン・ホセの祭壇で,翌年の12月という日付けが印されてある。更に翌年の1885年のサン・ホセの日に丸天井が掛けられていないまに,最初のミサが取り行われた。1887年から98年は,アプスの壁尖塔,1891年から1903年まで御誕生のファサードの4基の尖塔、それぞれ1926, 1927, 1929, 1930年完成。ガウディ自信は他界していた。
ガウディの計画したサグラダ・ファミリア教会のプランはデル・ビジャルのものとも異なり,ラテン十字の5身廊形式で,トセブト部が3身廊。主正面からアプスまでの奥行き、95メートル。トランセプトの長さ60メートル、中央身廊巾50メートル、同高さ45メートル。側廊巾7.5メートル。同高さ30メートル。トランセプトと身廊の交叉部は170メートルの聖母マリアの塔を囲んで4聖人を表徴した塔。また三つのファサードにはそれぞれ4基の尖塔があり、12使徒に捧げられている。また三つのファサードを繋ぐように回廊がまわり、矩形をつくり,四隅には洗礼場と聖体礼拝堂、それに二つの聖器室がある。三つのファサードはそれぞれ御光栄(Façana de la Glòria東門), 御誕生)Façana de Naxement),御受難(Façana de la Pasió)と呼ばれ,各ファサードキリスト教の三紱つまり,信,愛、望と呼ばれる門(左から右へ)がある。
続く

A+U 1975年1月号
バルセロナに関するノート⑨
より