サン・エステバンの修道院 Convento de San Esteban

サン・エステバンという名前はここに同名の教区教会があったからで、ここにドミニコ派の修道僧が移った時に修道院の建設となり、この教区教会は壊されることとなり名前だけが残ったのだった。 1524年のことだった。建設は1610年まで続き、マルティン・デ・サンティアゴ層(Fray Martín de Santiago)、ロドリーゴヒル・デ・オンタニョン(Rodrigo Gil de Hontañón, 1500〜 1577年), フアン・リベーロ・デ・ローダ(Juan Ribero de Rada,1540〜1600年),そしてペドロ・グティエレス(Pedro Gutiérrez)という時代を代表するような建築家たちが名を連ねた。しかし、全体のプランはどうやらホアン・デ・アラバ(Juan de Álava, 1480〜1537年),の案らしく、1524年に着工している。ヒル・デ・オンタニョンは交差廊から内陣にかけての仕事をしている。建築史上では普通プラテレスコ・スタイルの典型として位置付けされているが、建設に要した時間があまりに長かったので、色々なスタイルが混在しているというのが本当のところだ。スペインで通常呼ばれている最大祭壇、つまり内陣の祭壇部分にある祭壇はバロックの巨匠ホセ=ベニート・デ・チュリゲラ(José Benito de Churriguera, 1665 〜1725年)の作である。
プラテレスコの典型とされているのは実は華麗で豊かな彫刻に飾りつけられた正面ファサードの部分からの評価で、ここにはポーチコが作られ、これが祭壇に見立てたデザインとなっている。このオーナメントは1590年から1592年の間にフアン・リベーロ・デ・ローダ、メダリョンは彫刻家マルティン・ロドリーゲス(Martín Rodríguez)によっている。

●ホセ=ベニート・チュリゲラ(José-Benito, マドリッド/1665〜1725年)はセゴビアのカテドラルにあるサグラリオの祭壇(Sagrario, Segovia, 1686〜90年)の作家。ブルボン家の王女マリア・ルイサの棺台のコンペ(1689年)に勝ち名を上げている。1690年10月8日に王宮の設計助手を任命されているが、無給でしかも1696年までこのタイトルに見合った仕事はしていない。1693年から1700年までサラマンカの新カテドラルのサン・エステバンの最大礼拝堂(San Esteban)の仕事に従事。後者はそのモニュメンタリティーと装飾の創作性が融合した最も美しいもののひとつ。ナバーロ出身のグアダラハーラからさほど遠くないヌエボ・バスタンにガラス工場を設営した貴族ファン・デ・ゴエネチェ公爵(Juan de Goyeneche)の庇護を受ける。ここで、サン・フランシスコ・ハビエル教会(San Francisco Javier)、宮殿、パティオ、庭園、この小さな町の都市計画をさせている(Nuevo Baztán, 1709〜13年)。またマドリッドではアルカラ通りにパトロン、ゴエネチェ公の館を設計、その入口は1773年にネオ・クラシックで改装されて、今日ではサン・フェルナンド王立アカデミー(San Fernando)となっている。晩年は祭壇を主に手掛けた。彼の死に際して『マドリッド官報』はスペインのミケランジェロと評した。彼の業績は主に祭壇彫刻家、装飾家としてあり、保守的で地方的ですらあった。
西洋建築家事典より