バルセロナ88年万博

シウタデーリャ公園はフォンセレの計画が進行していく中で1888年万博をバルセロナでという企画が持ち上がり、これにシウタデーリャ公園を充てることが決まった。
コミッショナーは当時の市長フランセスク・リウス(Francesc Rius i Taulet, 1833〜1889年)、建築学校の校長であるエリアス・ロージェント(Elies Rogent, 1821〜1897年), リュイス・ロウビーレ(Lluís Rouvière, ), 銀行家であり、文化事業へのパトロンでもあったマヌエル・ジローナ(Manuel Girona i Agrafel, (1817〜1905年), 新聞社を経営していたマヌエル・ドゥラン(Manuel Duran i Bas,(1823〜1907) 実業家のジョセップ・フェッレール(Josep Ferrer i Vidal, 1817〜1893年), 美術評論家のカルレス・ピロツィニ(Carles Pirozzini i Martí, 1852-1938), そしてグエイの義兄弟であるクラウディオ・ロペス(Claudio López Bru (2º Marqués de Comillas, 1853〜1925年) で作る8人会が音頭をとった。
万博は1888年5月20日のオープンし、40万人の入場を記録した。53万人の人口の町であった、バルセロナではまずまずの成功であった。

博覧会開催のもともとのアイディアはガリシア出身でバルセロナに住む自称実業家であるエウヘニオ・セラーノ(Eugenio Serrano de Casano)が市役所に持ち込んだ話であった。しかも市役所とは契約までしている。その大まかな内容は市役所は会期中に20万平米の土地を無償で提供する。その代わり市役所には一切経済的な負担はかけないというものであった。市役所はこの提案に1885年3月11日に同意、同年6月9日にサインを交わしている。
開幕1年前の1887年4月になって、セラーノの契約は白紙に戻された。公には彼の力不足を市役所が認め、8人の会に移権されるということであった。

博覧会場は3万8千平米。一応の成功をみるわけだが、ガリシア人のセラーの退陣は何故か、これは興味深いところだ。セラーのはベルギーに住んだこともある、博覧会のレポーターという経歴を持っていた。バルセロナに会場を選んだのも国境に近くヨーロッパからの客を呼びやすいということからだった。

博覧会に合わせシウタデーリャの会場の他、現在のフランス駅が建設され、凱旋門、ラス・ランブラスの海側にコロンブスのモニュメントが建てられた。実現はされなかったもののエッフェルも塔の提案をしている。

38万平米の会場に作られた施設は現在もそのいくつかが残っているが、要塞、公園化、博覧会会場、そして現在の市民公園という変遷をくぐり抜けている。