サン・パウとロマネスク


70年代のラス・ランブラス

日曜日のラス・ランブラス


サン・パウ・デル・カンプ

バルセロナを最もよく物語る通りの一つ、ラスランブラ通りからサン・パウ通りに入ると、ここがバリオ・チーノ(現在ではこの汚名を拭うためにラバル地区と呼ばれる)、中国人地区と呼ばれる一帯で、観光庁指定の旧市街ゴシック地区を表とすれば、ここは庶民や船員に人気のある裏となる。ハンブルグアムステルダムと並んでその名を知られているバルセロナの特別地域がそこにある。またそこは歓楽街というばかりではなく、最も安いペンションやバー、安いだけが取り柄のお土産屋が軒を並べ飾り気のない庶民生活と混在している。ヨーロッパから入った人は、ここにその末端あるいは異国をどんなにか感ずることだろう。
サン・パウ通りを下って旧市街をほとんど出たところに少し大きな空間がある。細い通りにはみ出した商品を載せた箱、行きかう人々のニンイクと汗の臭い、それをかき分けて進む車、なかば崩れたモルタルの壁を拭うような濡れた洗濯物に見飽きれていると、ぽっかり何か不釣合な空間がある。そしてその中にこじんまりとした教会がある。それがカタロニア・ロマネスクと呼ばれる様式のひとつを形成するサン・パウ・デル・カンポ(Sant Pau del Camp)ロマネスク教会である。
サン・パウ・デル・カンポは915年頃あるいはそれ以前からあったとされている。現在市内に残る五つのロマネスク教会のうち、もっとも完全に今に姿を伝えているものである。また西ゴート族の装飾エレメントを主正面入り口と柱頭に、回教風の裂葉状アーチを回廊に留めていることで注目される。確かな記録はなんら残っていない。10世紀から12世紀にかけて回教徒の大火災や破壊行為にサン・パウ教会はほぼ崩壊し、その後1117年ギルベルト・ギダルト・イ・ロシャンディス「Guilbert Guitard i Rollandis」によって新しい修道院の設置がなされた。現存するのは12世紀のもので、回廊は13世紀、僧侶室と修道院長室(現在の僧長室)は14世紀、トランスプトの円蓋はその後の16世紀のものである。構成はギリシャ十字、トランセプト交叉部に基部八角形の円蓋を持つ三身廊形式、ロンバルディア風のアーチ、ファサードはそれ以前の建造物に由来するものと思われる彫刻的エレメントを今に伝えている。
スペイン・ロマネスクは二派から形成されていて、一つは聖ヤコブの遺体が発見されたサンティアゴ・で・コンポステーラへと導かれるロマネスクの道と、それからの派生であるカスティージャ派、そして他方がカタロニア派である。カタロニア派・ロマネスクの初期はカロリン朝とアラブの影響を多分に備え、その延長上に独自の形式を生んでいる。たとえば、サン・ペドロ・デ・ラス・ブエリャス(San Pedro de las Puellas, 945年)サンタ・マリア・デ・アマール(Santa Maria de Amar, 941年)、サン・ペドロ・デ・ローダ(San Pedro de Roda,1022年)、サン・ミゲール・デ・クシャ(Sant Miguel de Cuixá)がそれである。1000年を境にしてカタロニアの発展は目覚しく、イタリアの諸都市と関係し、地中海貿易を通してロンバルディアに興った新技術を吸収し、わずかな時期に広がっていった。サンタ・マリア・デ・ロサス(Sant Maria de Rosas, 10222年)、サン・ビセンテ・デ・カルドーナ(San Vicente de Cardona)あるいはピレネー山脈に広がっている教会建築(ふつう平石積石造、木造小屋組)との合体から、タウイ(Taull)のサン・クレメンテ(San Clemente)やサンタ・マリア(Santa Maria)を生んだ。ともに特徴的で鐘塔を備えているのが一般的で、現在アンドラ公爵領国にあるサンタ・コロマ(Santa Coloma)のそれは円筒形である。リポイ(Ripoll,ジローナ県)のサンタ・マリア・修道院(Santa Maria)は11世紀に始まり、ロンバルディア様式導入期に再建された(1032年)カタロニア・ロマネスクの重要な作品の一つである。カタロニアの南部に様式が流布すると、それらはよりロンバルディアの特色を強く示し、セオ・デ・ウルジェル(Seo de Urgell)のカテドラルやサン・パウ・デル・カンポが、その興味深い回廊とともに建てられた。12世紀の末、シトー派の流布とともに様式は衰え、13世紀にはゴシック過渡期となり(ポブレ修道院、サンタス・クレウス、タラゴナ県)、タラゴナのカテドラルとレイダのカテドラルに最初のゴシックエレメントが使われるにいたり、姿を消した。カタロニアは当時、相当な版図を治めピレネーを超えていたばかりか、10世紀には多くの修道院がフランスの傘下に入っていたし、次の世紀には重要事項決定がフランスの司教の参加によって行われていた。このことはカタロニアへの多くの影響を物語っているが、この隣接しているラングドックはカタロニアと共にロンバルディアの影響下にあって、新技術や工法は地中海貿易でより密接であったバルセロナから逆にラングドックへ流れたことは間違いないようだ。つまりここにロマネスク様式がスペイン・カタロニアからフランス南部へと広がった証がある。

A+U
1974年4月号より