イルデフオンソ・セルダ年譜

1815年12月23 日バルセロナ,ビック近郊センテージャスに生まれる。
1832年バルセロナへ出,数学と建築を学ぶ。マエストロ・デ・オブラ(建築技術士のようなもの)のコースに学ぶ。
1835年道路・運河・港湾技術学校へ人学のために9月マドリッドへ立つ。
1836年病気と経済的問題(戦争中で家族は送金できなかった)にもかかわらず道路・運河・港湾技術学校へ入学。
1839年経済的困難難続く。
1841年卒業。ムルシアへ県庁の仕事のために送られる。
1842年道路設計のためタラゴナへ。
1844年父亡くなる。南フランスへの旅で,汽中をはじめて見る。
1846年バルセロナとサン・ファン・デ・レス・アバデエセス間の鉄道施設を設計計画する。テルーエルの道路を計画
1847年一級技術士に昇格。バレンシアの水道給水の監督官に任命される。
1848年兄がなくなり,家督を継ぐことになる。マグダレーナ・クロティルデ,ホッシュ・カルボネル(1829年生れ)と結構。
1849年県道設計依頼を受けるためにジローナへ。11月,道路技術者団設立を要求。
1851年進歩派としてバルセロナ県で立候補。当選。
1854年11月バルセロナ市の理事となる。12月政府軍の少佐の地位を破棄する。
1855年プロレタリア委員会の代表委員としてマドリッドへカタロニアの現状報告に行く。11月,バルセ口ナ拡張予定地の地形図完成。市の経済的援助なしで成しとげ、金メダルをもらう。12月,バルセロナ市はセルダをマドリッドへ送る。地形図を政府に提示する。
1856年雑誌『公共建設の誌』がセルダの地形図を発表。
1859年勧業省セルダ案を認可。以降数年問バルセロナではセルダ案についての痛烈な議論が起こる。
1860年王命により,マドリッドの都市改造計画の実現のため研究が必要なことが公布される。
1862年市内警察,および公共建築諮問委員会によりセルダのマドリッド都市改造計画の研究が認められる。
1863年政府は国費で『バルセロナ拡張計画』の出版。3千部刷る。
1864年バルセロナ拡張奨励協会」会長となり拡張予定地の約20万平方メ一トルを手に入れる。
1865年バルセロナの経済発展のための計画書を発表。
1867年『都市計画の一般論』の第1,2巻がマドリッドで発刊となる。ところが第3巻は理由がわからないが,発刊にならなかった。
1868-73年バルセロナ県庁の副知事となる。その間海岸測量図,バルセロナ県の県道地図,地名表の作成をする。
1876年8月21日没(サンタンデールにて)。その友人の言によれば,それ以前にマドリッドへ引越した(政府へ報酬の請求のため)。彼の晚年は言語学と語源学の研究のために費されたという。

このセルダ展はバルセロナの大学において今年3月〜4月に開催され,次いで5月6月をマドリッド、レテーロ公園のゴヤ館(Pabellón de Goya)で催され,セビージャ、サンティアゴ・デ・コンポステーラへと巡回された後、パリ、ニューヨーク,ロンドン,プリュッセルからの召喚がある。展覧会の計画はほぼ一年前から準備が進められ,私自身もこれに閱係していたため、何枚も計画の図面を引かされた。その予算の多さ(約2千5百万円),そして規模の大きさ(使われたパネルは2 X 3 メートルで80枚以上,使った印画紙が1000平方メートル近い)からいつても,建築関係,少なくとも都市計画家個人を扱った展覧会で最大のものであろう。展覧会の会期中には週2回講演会があリ、4枚のスクリーンを同時に使ったスライド映写があり。40分の16ミリカラ—映画「セルダ,その偉大なる失敗作」がつくられた。本稿はカタログとして出された191頁、20 x 24.9センチメートルをもとに書き加え,後半の碁盤目の伝統」「傾向の系列」「今日の問題を削ったものである。カタログのテキストはガウディの研究からモデルニスモ都市の研究をしている。
また、この展覧会のオーガナイザーである建築家サルバドール・タラゴそして、マドリッドの線状都市のアルトゥーロ・ソリアの孫に当たるエンジニア、アルトゥーロ・ソリア・プーチ他によって書かれた。

A+U 1976年11月より