インタビュー7 Entrevista a José Antonio Martínez Lapeña

グエル公園の初の大々的修復
ホセ・アントニオ・マルティーネス・ラペーニャ

 UNESCOが人類の文化財としてグエル公園を指定したため、その現在オーナーである市役所は1987年頃にこの公園の修復に踏み切ったのだと思います。文化庁の経済的支援を受け、私と事務所を協同運営しているエリアス・トーレス(*1)にこの依頼がありました。市役所はコンサルタントに歴史的あるいはガウディの専門家としてジョアン・バセゴダ、そして建物現況調査のエキスパートとしてバルセローナ大学教授のフルクトォーソ・マニャをそれぞれ任命しました。
 まず我々は現況図を起こすことから始めました。この種のプロジェクトでよくあるように予算だけ決っているのでどこまで手を入れられるかは建築家の判断次第です。だからこの判断というのがとても大切なのです。最初に現場を見て歩き、その後多列柱室(*2)の傷みが一番ひどいという結論になり、この上部、つまりベンチのある広場の床を一部あげたり、強度実験をするためのテスト・ピースを構造体から抜き取ったりしました。その他正面エントランスにあるパビリオンもスラブがかなり傷んでいて、特に近年の修復が悪影響を及ぼしていて、これをオリジナルの状態に戻す必要がありました。同様に陸橋のヴォールトにもクラックが認められ、これに対しては車の侵入を禁止して対処しましたが、全体ではやはり一番早急な手当が必要だったのが多列柱室でした。
 グエル公園の構造のスキームについてはイグナシオ・アパリシオによって研究されていましたが、この調査を通じて建設システムを完璧に知ることができました。円柱の上には一連のリブが載せられ、これに半円形のヴォールトが載せられ、この上に石、砂利、そして土がかけられて屋根ができるわけです。これが浄水システムとなっていて、浄水された水は円柱を通りその下にある水槽へ溜められ、これがパイプで引かれドラゴンから流れ出るということになっています。
 これまでわかっていなかった事はポリクロームのトレンカディスで覆われている周辺ベンチの構造システムですが、これは鉄骨がレンガの詰め込まれている床にアンカーされているというものです。こうしてベンチやその背の部分は構造的にはキャンチ・レバーになっているのです。長い年月の間にこれらの円柱の内部は詰まってしまい、広場の排水がうまくいかず悪影響を生み、リブの全てが湿気のために傷んでしまいました。リブは鉄の棒をモルタルで被覆するという単純なものですが、これが湿気により酸化し、その容積を増したためにほとんど全部がだめになっていました。公園では40年代の頃から修復工事は始められ、さまざまな工事がされてきましたが、いずれも表面的なもので湿気や雨水の侵入によって生じた損傷については手当がされたことがありませんでした。もうひとつの問題は水槽の底に溜っていた1.5mほどの土砂を取り除く時にかなりな大きさのクラックが見つかりこれをどう処理するかということです。円柱を通って流れ込んできたこの土砂が、特に周辺の傾いている柱に水平力を及ぼし、かつて川があったらしいこの辺りの地盤の悪さがこれをさらに助けクラックを生じさせたようです。こういう事から基礎の補強をしました。
 もうひとつ危険だったところはアーキトレーヴの部分でライオンの頭のいくつかは落下してしまいました。これというのも列柱室の上部が防水されていなかったこともあり、これによって柱頭の部分も一部剥離落下してしまいました。
 円柱のセラミックの仕上げを剥すと円柱自体の状況もかんばしくなく、ステンレスの配筋を入れました。
 トレンカディスの取り替えには一番気を配りました。というのも白だけで21〜25種類ありました。オリジナルから色見本を取るのですが、これは考えたらおかしなことで、もともと白く出来なかったから捨てられたものだったのですが、今度はわざわざその失敗したものをつくるわけです。21種の白をつくったのですが、あるものは青っぽく、他はサーモン・ピンク、他はグレーとかでこれを組み合わせるのは大変なことで一年〜一年半もリブの被覆にかかりました。
 ベンチはもっと難しく、責任重大でありました。六〜七割方が傷んでいたし、何度も補修が重ねられていたからです。そこでは白はバックという判断、つまり大切なのは絵であり、色であり、白というのはこれを引き立たせるためにあるのだという事です。そして慎重に白タイルを剥し、オリジナルの状態に戻しました。ただし鉛の酸を使ったセラミックを使うのではなく、耐久性のことを考えて更に高温で焼いた特殊なものを使いました。
 構造的な問題に対処した後に、クラック部分のトレンカディスは普通のセメントを使って張り付けるのをやめて特殊なものを使い再度なにかの理由でそこにクラックが生じたとしてもセラミックが割れないように、つまりエクスパンとして生かせるように考えました。またポリクロミーの部分で傷んでいるところはひとつひとつ剥し、市のセラミック博物館からもらった古いタイルを使ったり、古ぼけたようにわざわざ作らせもしました。これがたいした問題にはならなかったのは、もともと工業生産されたごく普通のものだったからです。ベンチの背の見切りの部分はポリクロームで一部オリジナルの状態で残っていました。ある時期にはニュートラルな色で取り替えられたのですが、もともとの色を付けるベきと判断しました。

注1 Elìes Torres(1944年生まれ)
注2 多列柱室にガウディは市場を想定していた。この上がベンチのある広場。

*José Antonio Martínez-Lapeña
建築家。1941年タラゴナ生まれ。1968年バルセローナ建築学校卒業。同年からエリアス・トーレスと共同して事務所を開設。1969〜71年、78年以降バルセローナ建築学校、83年からは、バジェスの建築学校で教鞭を取るほか、熊本のアートポリスの作品など設計活動でも活躍している。

at
1994年8月号
”ガウディを蘇生する”より
続く

グエイ公園についてはこちらにもあります
http://d.hatena.ne.jp/Arquitecto+AntoniGaudi/20120301/1330672415