ガウディとガウディたち Vol. 14

モデルニスモの反旗
セルダ案の的確なフォンセレによる判断は、実は1768年以降リクラ侯によって塁壁都市バルセロナで試まれたファサードの平面性を取り戻し、街路にあふれた混乱を整備しょうという勧告条例に象徴される工業時代特有のメンタリティーであった。いわゆる高度経済成長期にあっての残忍冷酷なまでの機械合理主義精神の建築,都市への投影なのであった。「ボラーダ」は取り除かれ、通りを越え建物と建物を結び渡されたブリッジは取り除かれ、通りへはき出される手工業者の換気简は取り払われ、境界線をはみ出した店舗の張り出し物は切り捨てられた。中世都市風景は近代合理主義精神という名目のもとに修正されたセルダの都市計画案のなかで、マエストロ ・デ・オブラであるフォンセレの手によって完璧なまでに建築として実体化されく至福の結実がみられた。
しかし、世紀も半端を越えるとバルセロナの状況は一転してくるのだった。
まずこれまでマドリッドにしかなかった建築学校が1871年になってバルセロナ市にも開設された。実用,現実主藪だけのマエストロ ・デ・オブラたちに代わって、バルセロナで育ったガウディ、プーチ・イ・カダファルクといつた建築家たちが輩出される契機がこうしてつくられた。
1873年2月にはアオスタ公アマデオが退位し、四年前に力タールニヤの諸都市で起きた共和主義者たちの決起を追認するかのように第一共和制政府が成立し、力タールニャ千年の願望である独立自治の気運さえ早くも見せ始めたのだった。
産業革命はすでに達成されてしまい、ボスト産業革命の黄金期ゴールド・ラッシュが力タールニャの経済的気勢を上げていた。

1880年学芸協会は芸術の工業へのアプリケートを問うアイディア・コンぺを催し、時代の要求を提示していた。
こういった新しいカタールニャのフォー力スとなったバルセロナは否応なしに急激な変転の場となっていったのだった。トメネク・イ・モンタネールはカタールニャの伝統である合理主義精神を磨き上げて、マッスを並べて花を散らし、新しい古典的なカタールニャ建築を創り上げようとする。ガウディといえばマエストロ・デ・オブラのフォンセレに学んで、機械合理主義的な発想を秘ませながらも、地中海の彫塑的な伝統を絡み合わせ、独自な神秘主義を漂わせ、またブーチ・イ・カダファルクは建築のエレメントを解体し、豊かな歴史的言語をもって新たに再構築していく。
モデルニスモバルセロナはこうしてエイシャンプレあるがゆえに、生み出しながらもセルダが構想した理を然とした。またどこまでも無限に続く均等な都市構成と、そこに構築されたマエストロ・デ・オブラたちの平面的で無表情な工業建築へ二重な反旗を翻してゆくのであった。それも輝くばかりの多彩で展しい反旗をエイシャンプレからカタル ―ニャのすみずみまで翻しているのだ。

中部建築ジャーナル1986年12月号より