シウタデーリャのフォンセレ


一八六九年エイシャンプレ計画が進行していた時、カタルーニャ人たちにとっては中央政府の圧力の象徴であったシウタデーリャの要塞が取り壊せるという認可が舞い込んでくる 。 市民にとっては念願のこの取り壊わしに、市は翌年公園として再利用するために国際コンペを開催している。
これに一等入選したのは、建築家ではなくマエストロ・デ・オブラのジョセップ・フォンセレ・イ・メストレス(一八二九年〜九十七年)であった 。 「破壊するために取り壊すのではなく、美化するために取り壊す」とフォンセレはいう 。 「公園は都市にとって」は人間の肺のようなものだという、言ってみれば当時の流行のキャッチフレーズを七十二年三月、市から認可された図面の右下にフォンセレは書き込んでいる。 五十九年のエイシャンプレ・コンペ案でシウタデーリャ帯に巨大な緑地を提案したのはフォンセレだけだった。 六十ヘクタールのこの緑地 は、間もなく一八八八年のバルセロナ万博の会場と指定されることから、フォンセレのコンペ案は大幅な変更をされてしまうのだが、建築学校の学生ガウディを助手として大滝・境内周辺の柵、あるいはカタルーニャの宗救的シンボルである奇山モンセラートのミニアチュール、日除室、温室、ホルン市場といった前モデルニスモ期特有な作品を次々とそこに完成させていった。


といっても1858年の市壁撤去の許可、それに次ぐエイシャンプレ計画の進行に事実上シウタデーリャ要塞の軍事的意昧あいは失ってしまった。詳しくはManuel Arranz他「El parc de Ia Ciutadella. Una visió histórica」, Barceona, 1984年参照

フォンセレについては拙稿「ガウディとフォンンセレ」, a+u, 1976年2月号、p.3