コミージャス候の居館 Palau Comillas/Palau Moja/Moia

所在地;Carrer Portaferrissa, 1

1875年以降

アントニオ・ロペスは事業展開の拠点をバルセロナに移すために家を買い取った。この家の敷地はラス・ランブラスに面しているが、バルセロナの中世市壁と市門フェリサの門があったころこで、現住所のポルタフェリサ通りというのもここから来ている。建物はネオ・クラシック・スタイルで1774年にモヤ候の居館としてジョセップ・マス・イ・ビラ (Josep Mas i Vila. ?, 1779年〜 Barcelona, 1855年)によって設計されたものであった。アントニオ・ロペスが買い取ろうとした1870年にはモヤ候は後継者がいなく1865年で家系が消滅してしまったので、全国労働促進会が本拠地として使われていた。成金であるロペスが買い取るにふさわし貴族の家であった。といっても1878年にはアントニオ自身もコミージャス侯爵という爵位をもらっている。
建物は買い取られるとマルトレイの手によって時代に合わせた改・装飾がされたが、この家には僧侶であり詩人ハシント・ベルダゲール(Jacint Verdaguer i Santaló, 1845〜1902年)が寄宿(1876 〜91年まで)していたのをはじめ、数々の王家の人物までもが泊まっている。1891年以降アントニオ・ロペスによって一時はトラサトランティカ社の事務所を3階に設けいていたこともあった。
アントニオ・ロペスの4人の子供のうち後継者を持ったのはエウセビ・グエイと結婚した、イサベルだけであった。このために次男である後継者クラウディオ(1853〜1925年)が死ぬと、エウセビの長男ジョアン・アントニオ・グエイ(Joan Antonio Güell y López, 1874年〜1958年)は父の建設したグエイ館ではなく、ここに居を定めている。このジョアンは父を受け継いだ実業家であたったが、バルセロナ市長を努めたこともあり、この頃市民に開放するということでラス・ランブラスに面したファサードの一階部分を切り取ってアーケードとし、市民に開放した。
スペイン戦争中はシンジケートCNTの手にわたり、サロンの110m2の絨毯は細切れにされ、貧しい人たちに配られたという。ジョージ・オーエルもこの館にいた事があるらしく、『カタロニア賛歌』にこの記述がある。現在ではカタルーニャ州政府の文化局がこの建物を占拠している。

正面はラス・ランブラスに向いている

メイン・エントランス 入るとコート、主階への大階段がある