カルロス・マニ・イ・ロイチ

Carles Mani i Roig (1866〜1911年)
彫刻家。
郷里の県庁所在地であるタラゴナバルセロナのラ・ロンハの美術学校で学び、仕事を得られずマドリッドに行くが2年ほどの間、ここでも仕事らしいものはもらえなかった。その後1894年から95年にかけてはパリに滞在し、新しい息吹を感じ、ロダンに感化される。しかし、パリでは生活の糧も得られず貧困の日々を送っていたが、そのすさまじさを見かねたルシニョールSantiago Rusiñoが世話をしたという。タラゴナに戻り、さらにマドリッドへと移り、画家ニコノール・ペドロ・ビセンテ(Nicanor Pedro Vicente Piñole Rodríguez, 1878〜1978年)や『98年の世代』の文化人たちにその極限を表現した作品を高く評価された。この時代の作品が『堕胎』(Los degenerados, 1901年)であった。1906年カタルーニャに戻ると、その状況に合わせて作品を作り直し1907年の国際芸術博覧会に出すがこれは酷評を得た。
この頃からサグラダ・ファミリアへ通うようになり、石膏模型の作業場に入り込み『無原罪』を製作したが、完成していた地下聖堂の僧侶を務めていたジル・パレス*の気にいらず、没ってしまう。ガウディはそれでも彼の才能を信じて諦めず、カサ・バトリョでサロンにあった祈祷場用の十字架のキリスト像を依頼している。1907年の博覧会の時も前評判が悪かった『堕胎』は階段の隅に並べられていたをコミッショナーに交渉してちゃんとした場所に並べるよう説得したのもガウディであった。ラ・ペドレラでクライアントの反対にあって実現しなかったコーニスのコーナー部分の彫刻も、マニが製作した。この石膏模型は工事現場のなかで完成していたらしいが、1911年のマニの死に遂に完成することはなかった。こうしてガウディはマニに仕事を与えたばかりか、没後もその未亡人の世話をしていた。

ラ・ペドレラに付くはずのマニの聖母像(マタマラのスケッチ)

この文字だけがマニの作として残された」

『無原罪』