セビージャのカテドラル2


セビージャのカテドラルの建設の経過を調べてみたら、色々な事が分かった。もともとはモスクであったというのは、歴史を調べるまでもなくあのプロポーションからして想像がつくわけだが、セビージャの町がキリスト教徒の手に落ちたのが1248年の12月22日だった。しかしこのレコンキスタの成立にも大モスクは壊さなかったのだ。レコンキスタの翌日にこの建物をキリスト教の教会として奉納式を行っているものの器はそのままにしている。その後の1356年の地震の被害に新たな宗教の場が新たに建設することが余儀なくされたのであった。
セビリアは結構建物崩壊を引き起こすような大規模地震の記録が残されている。モスクに最初の被害のあった1079年地震,建て替えを強いられた 1356年、その他1504年、また1755年のリスボン地震にも影響を受けている。
コルドバのモスクは現在もそのままカトリックの教会として残され、カテドラルはその一部を間借りでもしているかのような格好で占拠している。
グラナダのカテドラルはどうやら状況が違っている。モスクのあった場所にカテドラルは新たに建てられるだ。これは完全にモスクの姿をとどめない。その理由はエンリック・エガス*というような巨匠の手になり、デザインが自分のものになっているからかもしれない。ミナレットのあった部分が鐘塔になっているのが分かるぐらいだろうか。もっともこのエガスの1506年のデザインは、実際の建設者であるシロエ*によってルネッサンス風に描きかえられて、3身廊も5身廊形式に変更が加えられている。いずれにしてもモスク跡であった事は分からない。
セビージャのカテドラルは5身廊形式9ベイとやたらと広くて、ゴシック起源と言いながら垂直性はなく水平に広がっている。昔のミナレット、現在の俗称ヒラルダという鐘塔との位置関係もモスクに見える。何よりも沐浴のパティオであるオレンジのパティオがほぼそのままに残されて、カテドラルと一体となって残されている。町に向かって現在も使われている免罪の門(Puerta del Perdón)はモスク時代のメイン・エントランスであった。これは馬蹄形アーチだけではなく門扉をモスク時代のそれをそのままに残して、ルネッサンス期にオレンジのパティオの免罪の門に1522年バルトロメ・ロペスはルネッサンス・スタイルで石膏細工を貼り付けているが、門自体はそのままにしている。しかもルネッサンス期の時代性を出しながらも既存の部分への気配りさえも見える。

オレンジのパティオは81x43メートル。西側の翼がサグラリオの教会の建設で壊されているものの未だに建設当初の面影を残している。免罪の門の軸線上にある噴水は西ゴート時代の水盤が使われている。床はレンガで舗装されているけれど、オレンジの木へ水が流れるように縦横にスリットが入っている。このスリットは靴によってはあるいはきょろきょろうえばかり見ている観光客にとっては危険極まりないけれど、素晴らしいアイディアだ。