バルセロナのガウディ建築案内番外編⑦

カフェ・ペラヨCafé Pelayo (1883〜1888年頃)
歳晩年の1925年にガウディは住んでいたグエル公園の家を引き払いサグラダ・ファミリア教会の工事現場に泊まりこんで、仕事と生活を共にし、この贖罪の教会建設続行に専念した。これには一般的にはある解釈が付け加えられている。つまり、敬虔なる宗教心の賜物というのがそれだ。とりわけガウディの晩年に弟子となった人たちとその世代の人たちによって語られたのが、宗教的な動機から僧侶のように心身を注ぎ仕事をしたということであった。しかしこれに議論をはさんだ人もなくはない。その一つの根拠が若い頃教会を罵倒することに興じていた進歩的知識人の溜まり場になっていたカフェ・ペラヨへの出入りであった。この行動 はどう見ても敬虔なカトリックがすることではない。つまり一番素直な考え方は、ガウディは教会の建設に閉じこもることで、誰からも干渉されず、自分の思い通りの創造の世界に浸ることができたというのだ。ガウディは最大の理解者であったグエルを亡くし、世界恐慌の真只中にあって新しい仕事を得る社会的な状況でもなく、唯一創造活動にのめり込めるのがこのサグラダ・ファミリア教会であった。 ガウディはサグラダ・ファミリア教会建設に没頭したばかりに、その後ミスティックな建築家というラベルさえ貼られてしまったのだが通勤の時間が惜しかったのかもしれない。
このカフェに通った理由はどうであれ、1883年から88年にかけてガウディは教会を罵るような連中が集まるカフェ・ペラヨに出入りしていたことは事実だ。ブルジョアジー出身でないばかりか30歳前半のガウディは政治感も進歩派であり、純科学的な指向を持っていたに違いない。それが、ここに通わせた理由ではないのか。カフェ・ペラヨには当時の進歩的な知識人であった建築家ドメネック・イ・モンタネール、画家シモン・ゴメス(Simón Gómez, 1845 〜80年, 若くして他界するがムリージョなどの影響下でレアリズムを目指す)、エンリック・ゴメス(Enric Gómes,1841〜1911年, 本名Enrique Gómez Tible、グアテマラ出身の文学評論家), 文学者バルトリーナ(Bartolina), エッセイストであり文学評論家のジョセップ・イサルト(Josep Ixart,1852〜98年)、劇作家、詩人アンジェル・ギメラ(Ángel Guimerà,1845〜1924年),そして学生時代ガウディが尊敬していた文献学のミラ・イ・フォンタナルス(Milà i Fontanals, 1818〜1884年)らが集まっていた。彼らは当時のそうそうたるカタルーニャの進歩的知識人であって、これにガウディも列席していたのである。
現在はハンバーガー・ショップとなっていて、これも時代の移り変わりだろうか。
所在地:Carrer Pelayo /Les Ramblasの角