バルセロナのガウディ建築案内番外編(43)

エルナの修道院 Monasterio de Elna (1883年6月21日)
現在の南フランスにあるエレナの修道院ルシオンの他の教会堂と違いエレナの教会は修道僧たちが建設したのではなく、司教座が直接建設している。南面は12世紀建設で、東面は13世紀初頭、北面は同世紀末、西面は14世紀の建設。その14世紀には2層目が付け加えられたが、1827年に壊されている。司教座がペルピニャンへ移動するに伴い(1602年)教会も荒廃をはじめるが、フランス革命後は役場として使われた。
回廊の設計自体は12世紀の通例である5ベイをアーチが繋ぐというもので、ロマネスクの南面はマエストロ・デ・セラボーン派の作とされて、植物、動物をモチーフとしている。中央の柱は聖ピーター、聖ポールの生涯をイコノグラフィーとして使っている。西面は南面を真似たもので、ゴシック・スタイルである。東面はゴシックで幼年のキリストの生涯を描いている。
この修道院へガウディは何故行ったのか。
1883年の6月18日から3日間、ガウディがかなり精力的に加わったカタロニア科学遊覧協会はフランスへと足を延ばしている。現在の南仏ロセジョンのバニュルス=シュル=メール(Banyuls-sur-Mer)でカタルーニャ人と、南仏の旧カタルーニャ文化圏の人たちが集うという集会に参加するためである。ピレネーのフランス側にあるこの一帯は政府の引いた国境線に対すればいかにもあいまいな国境感があり、国境の商売である密輸入で生計を立てていたほどであった。文化圏ではパリにはほど遠く、カタルーニャに隣接しているからだ。しかも1289年にカタルーニャであり、フランスではないという理由でこの村の修道院が襲撃破壊されるといういきさつがあった。19世紀に経済盛隆の雰囲気にカタルーニャ人がレコンキスタをしようということだったのだろうか。教会の記録によればこの時100人ほどの規模の歓迎の晩さん会が開かれたという。その翌日ガウディ他、詩人であり、アントニオ・ロペスの寄宿僧ベルダゲ、カタルーニャ文学の再興に尽力したアンジェル・ギメラなどを率いてこのカタルーニャと因縁のあるこの修道院見学を見学のために脚を伸ばしている。

記念撮影には応じたもののガウディは隠れるようにしている

エルナの町の修道院全景


回廊にはロマネスクからゴシックの柱頭がずらり

バルセロナのガウディ建築案内 (コロナ・ブックス)

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