バルセロナのガウディ建築案内番外編(48)

グエルの新居パラウ・フォノジヤールPalau Fonollar
1871年11月29日、グエル家の御曹司エウセビ・グエルは25歳でアントニオ・ロペス・イ・ロペスの娘イサベル・ロペス・イ・ブル(20歳)と結婚している。この結婚自体スペイン実業界史上に残るべく記念すべき出来事だった。何しろスペイン有数の財閥を築いていた二つの家族が親族となるという一大事件であった。結婚式は義父の居館であるモヤ宮内の大サロンに面する小さなチャペルで執り行われている。
そして、父親ジョアン・グエルの住んでいたラス・ランブラス37番地の家に同居するのではなく、アントニオ・ロペスの住んでいたパラウ・モヤに隣接する家の一部を借りて新居とした。パラウ・フォノジヤールがそれだ。グエルは父以上にアントニオ・ロペスを慕っていたという。そのためだろう隣の家を借りているのだ。しかもロペスの家は宮殿と呼ばれるに相応しい堂々とした構えなのに対し、こちらどちらかといえば変哲も無い建物で、これも義父への遠慮からか、それともグエルの驕りを見せない性格からだろうか。
さて、グエルの長女イサベルの家はガウディが改装わけだが、この家はガウディに設計させるわけにはいかなかった。グエルはまだガウディのことを知らなかったばかりか、ガウディ自身は1871年にはまだ学生だった。

パラウ・フォジャール概観

同メイン・パティオ

内装を担当したのは当時の代表的な建築家マルトレイの元で、アントニオ・ロペスのパラウ・モイヤの改装を担当したカミリ・オリベーラス・イ・ジェンサーナCamil Oliveras i Gensana (1840- 98年)だった。このオリベーラスはもともと工匠のタイトルを持ち建築の仕事に従事していたが、その後建築学校に入り直し1877年に建築家のタイトルを得ている。オリベーラスはドメネク・イ・モンタネール、ジョセップ・ビラセカなど当時の代表的な建築家のもとにも学び、建築学校を卒業した1877年にはバルセロナ県の建築官となり、県立出産病院(バルセロナ、1889-98年)、県庁舎(現在の州政府の建物)のメイン・エントランスなどをこの時期に設計している。ガウディとの接点はジョアン・マルトレイに協働してカスペ通り27番地のジェスイット派の修道院付属教会(1883-85年)の設計を担当した時期であった。マルトレイの事務所で両者は机を並べていたわけだ。ガウディはエル・カプリチョで設計に協力してもらい、その後もグエル館で主にインテリアを担当しサポートしている。といってもグエルとの繋がり自体はグエル館以前、今だグエルがパリでガウディのショー・ケースを見る以前からグエルを知っていたわけで、ガウディは工匠であったオリベーラスの建設上の実務経験の豊かをかっていたばかりか、パラウ・フォノジヤールの改装をしていてグエルのことをよく知っていたオリベーラスであったから心強い協同者だった。
しかし、グエルはオリベーラスの改装が気に入らなかったらしく、改装後、プジョール・イ・バウシス*から1500枚のセラミックを買い、手を加えている。このセラミックはパラウ・グエルが完成すると剥がして、ガウディは屋上の煙突に使っている。
また、その後ガウディに依頼したパラウ・グエルは父親の家との連絡路を設けさせている。

グエルが手を入れるためにタイルを使って自ら改装したが、パラウ・グエルが完成するとそれを剥がしてガウディに使わせた。

ジョアン・グエルのラス・ランブラスに面する家

父の家とパラウ・グエルをつなげる通路
現在はフェラン・アドリアのファンデーションがある。

所在地:Puertaferrisa, 7-9, Barcelona

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