バルセロナのガウディ建築案内番外編(53)

マヌエル・ジローナの家
本編である『バルセロナのガウディ建築案内』34ページにはバルセロナのカテドラルの正面ファサードのコンペが1882年に開催されたことが書かれている。建築家ジョアン・マルトレイは当時ガウディの当時の雇い主であり、ガウディはすでに建築家のタイトルを得ているものの、マルトレイの事務所でインターンとして働いていた時期の事であった。このコンペでガウディはドラフトマンとして絵を描き、レタリングは75年以降建築学校で教鞭を取りはじめ将来を約束されていた若手建築家であるドメネク・イ・モンタネールが担当。筆頭建築家のマルトレイはむろん建築家とし社会的な地位を確固としていたのは勿論、教会とのコネも十分あるという最強のメンバーであった。
審査の結果は建築家でもないが、資金援助を申し出ていたマヌエル・ジローナ(Manuel Girona i Agrafel, 1817-1905年)の案が入選している。しかし、市民からのプレッシャーがかかり却下、そしてコンペに参加した一人であった司教座の建築家であったオリオル・メストレス(Josep Oriol Mestres i Esplugas,1815-95年)とその弟子であるアウグスト・フォントが設計を担当することになった。しかし、市民からの評判はこれも芳しくなく、設計変更を繰り返しているうちにどうもマルトレイが出した案に近い形で最終的に実現された。
このごたごたのあった時期にエウセビオ・グエルはガウディの参加したコンペ案を世間にアピールするために印刷代を負担して雑誌にこの案を発表させたりしている。
さて、このマヌエル・ジローナは、実業家の家に生まれ、父を受け継ぎ実業家になり、父親の創設した金融業の仕事を16歳で受け継ぎ、後に近代の銀行を築いた人物で、例えば1876年にはアントニオ・ロペスとともにイスパニア植民地銀行を創設し植民地政策に金融面からサポートした。1876年から77年にはバルセロナの市長を務め、88年万博のコミッショナーでもあったし、モントリオールの潜水艦建設の資金援助もしている。この息子の家が現存している。プロベンサ通りといってもパセイジ・デ・グラシアに隣接つまりカサ・ミラのすぐ前にある。1912年父親が死んで、Ample, 2番地の家から引っ越して、新市街に移った。設計は多才な建築家、エンリック・サグニエール・イ・ベラベッキアであった。
所在地:Provença, 298, Barcelona

コンペのあった当時のカテドラル

現在のカテドラル


交差廊上に一般には付けられるランターン―タワーはファサード近くに付けられる


カサ・マヌエル・ジローナ