第八章 ルネッサンス/Renacimiento

後期ゴシックがこのようにイベリア半島で狂い咲きしたのは、まぎれもなく半島両国の黄金時代を予告してのことである。
1471年、ポルトガル船は赤道を通過、1479年にはスペインは統一され、1492年には最後の回教圏グラナダを奪還し、同年にはコロンブスの新大陸発見、1497年にはバスコ・ダ・ガマのインド航路発見、ついでブラジル発見(1500年)、セイロン島発見(1505年)、1516年にはカルロスV世即位に、スペイン絶対主義を完成、1532年のペルー征服では大量の金・銀を持ち帰る。・・・・・
こういったいわば西欧世界での一等国である両国はイサベリーノやマヌエリーノを植民地諸国へ輸出したとしても、決してイタリアのような後進国へ目を向けようという社会的な気運に欠けていたのであろうか、15世紀に入っても長々とゴシックへ執着していた。

プラテレスコ

プラテレスコ、つまり銀細工様式はその名が示すように、その細微な銀細工のような細工の装いを特色としている。しかし実のところイサベリーノとの区別には困難をともなうのである。
例えば先にあげたサン・グレゴリオ・カレッジの回廊などきわめて微妙である。一般的な解釈としては、イサベル在位(1474〜1504年)の作品をイサベリーノ、それ以降クラシシズムに至る間をプラテレスコと呼んでいるようである。つまりそこにはゴシック的なプラテレスコとルネッサンス的なプラテレスコが存在しうることを意味している 。
ともかく概して装飾的なコンポジション、幻想的な形態、胸像、円形浮彫、グロテスク、矩形、円筒などの複合的な構成、・・・・・といったものを特色としているが、これはフランドルやオーストリア、イタリア領のほか、本国・植民地を承継し、「スペイン領に太陽の没することはない」という神聖ローマ皇帝、カルロスV世を象徴したスペインのまさにユニバーサルな芸術言語を求めた結果、自己主張の強い金ばかりかけた様式となったのであろう。
16世紀の初頭からイタリアとの芸術交流が活発となってくる、というのも女王イサベルは莫大な富を本国へ送り込んでいるアメリカや、特にアフリカへの興味が強かったのに対し、地中海の支配者であったアラゴン王の後裔であるフェルナンドの方は、その伝統からむしろヨーロッパ、つまりイタリアへ興味が向けられていたのである。イサベルは夫を国王として残したまま、1504年に没していて、これが微妙にスペインの指向変換へ影響を与えているのである。
それは最初墓石などの小品をイタリアから直接持ち込むことから始まって、ついで、石材とともにイタリアから職人や芸術家たちがその組み立てのためにスペインに入ってきた。
その最初の記憶されるものがラ・カラオーラの城(La Calahorra, Granada県, 1509〜1512年)で、ジェノバの建築家兼彫刻家、ミケーレ・カルローネ(Michele Carlone)がカラーラの大理石をそこに刻んでいる。しかしカルローネの純然たるイタリア・ルネッサンスは、追従者を出さないという意味で、無視された。
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ラ・カラオーラの城/Castillo de La Horra, en Provincia de Granada


ジェノヴァ出身のカルローネはカラーラから大理石を取り寄せた。