第十二章 現代

ミースのバルセローナパビリオン
カスティージャでは98年の米西戦争の敗北に中南米諸国を失なったスペインの心情を代表して、悲観的に伝統的ロマンティズムを超越しようという試みである“98年代の世代”を生んでいたのだが、カタルーニャモデルニスモはこのように経済的繁栄に裏づけられて、楽観的に進められていたのであった。
しかしこのカタルーニャ経済の危機に、だらだらとガウディ没年である26年までもモデルニスモ建築は建てられるというものの、花は散らしてしまうのであった。
1929年にバルセローナで開催された万国博覧会は、老モデルニスタ、プーチ・イ・カダファルクの、セセッションの地方的解釈といった総合計画に
基づいていたのだが 、1923年以降の軍部独裁政権はモニュメンタリズムを押しつけてよこした。ところがこの博覧会ではまた、ミース・ファン・デル・ローエの“バルセローナ椅子”と“ドイツ館”というまさにユニバーサルな歴史的作品が展示されていたのであった。だが当時の雑誌 はこのドイツ館を次のように評しているのである。「ドイツがその内装から建物のすべてにわたって使った、まったくもって革新的なそのスタイルに触れておかねばならないであろう。それは博覧会中の最大の悩ましき悪夢で・・・・・・。」
ミースのバルセロナパビリオン

再建中のパビリオン

このフラットな屋根が、建設中大問題となりました。ミースは半年間の仮設建築で、しかもバルセロナが雨の少ない町であるとして、ダンボールで屋根を作ったのです。これが恒久的なものとなるとそういうわけには行かず、この薄い屋根が厚くならざるを得ません。

完成後のパビリオン


オニックスも大問題で、最近はこんなに大きなブロックでは切り出さなくなってしまい、この工事のため特別に大きなブロックを切り出してもらいました。

会期後はステンレスの柱、オニックスなどほとんど全ての材料は持ち帰ったのでした。


中部建築ジャーナル
ヨーロッパ建築通信No.66 1986年9月
バルセローナ館再建
去る6月2日、ミース・ファン・デル・ローエのバルセローナ館の再建除幕式がミースの肉親の立会いのもとに行われた。バルセローナは現在世界各国で行なわれている生誕百年行事のひとつとしてオマージュしようというのだ。
といっても、バルセローナ館再建に対する市の執着は今から30年も遡る1957年から始まっている。当時バルセローナで近代建築運動の中核となっていたグローポRの事務局長オリオール・ボイーガスは、ミースに書簡を送り、この再建計画を打診した。ミースからの返答は、現場管理を無償で引き受け、再建に全面的な協力をするという好意的なものだったが、同時に現在入手困難な大判のオニックスやトラバーチンあるいは失われてしまった工法をどうやって取り戻すかという点に、再建の困難さを示唆していた。当時はこの莫大な再建資金が集まらず不発に終わってしまった。
ミースのこのバルセローナ館はバルセローナ29年万博のドイツ館として1929年5月27日に除幕され、その8ヶ月後の万博会期終了とともに解体された。設計施工期間が極めて短かったために、この小館(建築面積は320m2)の材料はほとんどドイツから直輸入され、解体後は再びドイツへ送り返された。その後の館の行方はあまりわかっていないが、当時のミースへの理解は大戦によって歪められ、バルセローナ館への評価も現在ほど高いものではなかったので、バラバラに売却されてしまったようである。
ただひとつ行方のはっきりしているのはパティオに設置されていた「モルゲン」と題されたゲオルゲ・コンペ(1877−1947)の2メートル半の裸婦像で。これは現在ベルリン市役所前の広場に移転されている。といっても29年に万博時には石こうでバルセローナに送られていたのだが、売却後ブロンズにされたのであった。ミースが国を追われたのに対し、コルベは躍動美に溢れたブロンズの裸婦像の代表的彫刻家としてナチスドイツに評価されていたから、これも当然のことであったといえようか。
もうひとつデザインとして残っているのはバルセローナ館のために特にミースがデザインしたいくつかの家具で、このうちバルセローナ椅子は近代の名作としてKnoll Internationalが現在も製造販売している。
その後、バルセローナでのミース館(バルセローナでは通称こう呼ばれている)への関心は全く消え去ったわけではなく、75年にはJ.P.ボンタによってモノグラフィーが刊行され、74年にはバルセローナ建築学校でフェルナンド・ラーモスは再建の技術的な問題をテーマとしてセミナーを開いたし、78年にはイグナシオ・ソラ=モラーレスが翌年のバルセローナ館建設50周年記念行事を企画するに当たり、ニューヨーク近代美術館でミースの記録保管担当役をやっているルードヴィッヒ。プラッサー氏とコンタクトをとり、館にまつわる生の資料を取り寄せ、建築学校で29年万博をテーマとしたセミナーを開き、翌年1月にはバルセローナのミロ・ファンデーションで同テーマの展覧会を開いた。この時にはグラッサーからミースのオリジナル資料が送られている。
再建の話が再び持ち上がったのは、革新市長が81年にオリオール・ボイーガスを市の都市計画部長として任命してからのことで、それから2年後の83年3月21日、ニューヨークでは5日間にわたって「カタルーニャ週間」と題する文化的な催しが行われたが、この折にバルセローナ市長がミース館の再建計画の意向をニューヨーク近代美術館でのイベントで正式に公言した。もっともこの2週間前に「Qui es Barcelona」展でミース館の模型がボイーガスとソラ=モラーレスの手で発表されていたから、彼らの意向は知られていたし、前年市議会を通過して再建計画は認可していたのだが、何しろ150万ドルという多額な予算に着工がうやむやにされていたのだった。
ニューヨークでの市長の公言後も再建計画は決して順調にはゆかず、この正式発表にもかかわらず着工されたのは85年の12月だった。資金捻出には建設運営組織がまずつくられ、バルセローナ市役所、バルセローナ見本市運営事務局(敷地の管理者)、ニューヨーク近代美術館が軸となってスペイン内外の私企業の寄付が集められた。再建予算は1億5千万ペセタ(1億9千万円)ということであったが、ミースが57年に予言した通り、建設には技術的に多くの問題点が出てきた。特に大判のオニックスやトラバーチンを探すのに再建の建築家たちはイタリア、ギリシャ、モロッコアルジェリアと石切り場行脚に何度も出たが良材が見つからず、このため竣工が大幅に遅れたりした。また当時の仮設性に対して、今度の恒久性を持たせるために発生する問題が種々ある。当時のパビリオンの屋根は厚紙を下地とし、これに石こうを塗るという全くの仮設、樋もないからたれ流しだったのだが、何せ1年半もてばいいという建物であったから、これでよかった。しかし、今回はそうはいかない。断熱性を持たせて居住性を高めなければならない。陸屋根には水勾配が必要だし、雨仕舞い、水切り、空調の機会室といったものも考えなければならない。これはまったく失敗しているのだが、かなりの面積に連続した漆喰天井をうまく塗り上げてくれる職人がすでにいなくなってしまったとか。果たしてどういう機能を与えて(今のところミースの記念館として使われ、ニューロークのミース生誕百年記念展の開催が来年2月から3月にかけて予想されているが・・・・・)、維持管理をどうしていくかという今後の問題もある。それに大問題となった敷地は29年万博の時と同じところなのが、正面ファサードに接近してプレコンを使った重量感あるライト風のINI館というのがあって、これが邪魔して、あのプラットフォームに載るステンレスとガラスの開放感ある近代建築史上の  な空間のパースペクティブがとれなく表現しきっていない。現物がなかったから実際以上にミース館は理想化されてきた。あの建築史の教本には必ず出てくるコンセプチュアルなミースのバルセローナ館のプラン、数々の模型写真のような姿は今回の再建が実現するにあたって、新たに別な評価がこのミースの代表作に与えられることは必要で避けられぬことであろう。いっそのこと再建は夢に終わらせて欲しいというのは筆者だけだろうか。
後記 オープニングにはミースの孫娘が出席したが、その時の挨拶が中々なものだった「今でこそLees is moreで知られている祖父ですが、この当時は大変な女好きな人で赤、緑、黄など色々な色もこのパビリオンには使われています」