トロハ/Torroja

かといって新しい建築の動きが20世紀初頭のスペインになかったわけでもない。それは後にカルロス・フローレスによって呼ばれたマドリーを中心とした《25年代の世代 》といわれる一連の若い建築家たちの行動と、彼らの協同作業である。
彼らは新しいスタイルをスタイルとして、外国雑誌や出版物から、その本質をほとんど理解することなく、国内へ持ち込もうとしたのであった。そのうちの中心人物ガルシア・メルカダルは、マドリーの建築雑誌『建築』誌の“世界建築の現状”欄によって、海外情報を、自分と同年代のほとんど実務経験のない若い建築家たちに伝え、コルビュジェやグロピウス、メンデルゾーンらを呼び講演会を開き、最小限住宅のコンペ開催など果敢な活動をし、それによってフェルナンデス・シャウのガソリンスタンド(1927年)、ラファエル・ベルガミンのヴィジョーラ侯爵邸(1928〜1929年)、ガルシア・メルカダルのスペイン最初の合理主義建築であるゴヤ館(Rincón de Goya, Zaragoza,1927〜1928年)といったものを生み出したのである。
それに時代は下るが、エンジニア、トロハ(Eduardo Torroja,1899〜1961年)をここで登場させておこう。彼はおそらく同時代のメルカダルやシャウのだれよりも国際的名声を得た建築関係者なのであるが、実のところ建築技術史は別としてその位置づけが大へん困難なのである。
アルヘシラスの市場(1933〜1935年)は建築家サンチェス・アルカスと協同し、サルスエラの競馬場(1936年)はカルロス・アルニチェス、マルティン・ドミンゲスとともに仕事をし、技術的な成果を審美的にも解決しているのだが、彼自身のポント・デ・スエルト(Pont de Suert)の教会には目をふさぎたくなるものがある。

アルヘシラスの市場
1971年撮影

サルスエラの競馬場、マドリッド

修復以前1984年の状況

同シェル下から見上げる


近年の修復後のサルスエラの競馬場

トロハ設計の高圧線送電線塔

Allozo(Navarra)の水道橋

ポント・デ・スエルトPont de Suert(Lleida)の教会



2006年4月15日撮影

技術者エドゥアルド・卜ロハ
現代スペインの建築界で、世界的に最も知名度の高いスペイン人はというと、まちがいなくエドゥアルド,トロハという技術者である。ネルビィやカンデラと並んでシェル構造の、あるいはフレジネやマイヤール、ネルビィと並んで構造機能主羲の開拓者として記億されているだろう。彼の名は現在も構造技術研究所の名称として温存され、特にP.C.コンクリート造、シェル構造の技術研究所として遺業を継いで活動している。

そのトロハの展覧会が、道路、運河、技術士会の主催で5月いっばい、マドリッドで開かれていた。(Nueva sede de Colegio de Ingenieros de Caminos, Canales y Puertos 住所C/Almagro, 42,Madrid) 主題はエドゥアルド・トロハの作品における現代さというタイトルが付いている通りト口ハの作品を再評価しょうということらしい。

果敢な技術的革新

トロハの業績

トロハは1899年、数学者の子としてマドリッドに生まれ、同地で土木学を学び、1923年にエンジニアの称号を得ている。1923年、フレジネがP.C.コンクリートの特許を得るとすぐその翌年、彼自身もそれを用い橋(テルパルの橋)を設計し、アルヘシラスの平面8角形の市場(1933年)では、バーゼルの市場(1929年)のリブ付きのシェルターを批判して、リブなしのシェルターで覆うというように、果敢な技術的革新を実現させている。何といっても決定的なのは、1936年、マドリッドのサルスエラ競馬場の観客席を覆ったキャンティレバーのシェルターで、非常な軽快な造形美をつくり出している。また同年レコレートスのフロントン場(現存しない)の60x36メ 一トルのブランはふたつの筒状ヴォ一ルトのシェルを段違いに並列させ、驚くべき新鮮な空間構成を提示することに成功している。

戦後セルトやカンデラという建築家が海外へ亡命したのに対し、トロへは国内にとどまって、国内の荒れ果てた道路網を斬新でしかも豊かな経験によって、ほとんど独占的といってよいほどに精力的に復興させている。そして彼のこの技術的、または理論的な成果とその実践的業績はフランコ政權という対外的に好ましくないイメ一ジすら塗り替えるほどの力を備えていたのである。1958年にはカリフォルニァで「構造の哲学」や、またニューョークでは「エドゥアルド・ト口ハの構造」が相次いで出版されるが、それもひとつの証でモロッコのフェダラではハイパーポリックパラボロイドを使った給水塔を建て〈1956年)カラカスのタチラ,クラブ案では技術的可能性の追求を乗り越えたものすら提示し、晩年にはいくつかの教会建築をこれらの新しい檷造的手法でもって、新しい宗教建築の方向を見い出そうと努力している。こうしてほとんど記録されるべきもののないスペインの戦後の建設業界で、世界的レベルでの業績を記録できたのであった。

61年に没したトロハは、その時各種文化団体、私企業、学位、名誉号、政府機関、果ては軍部技術顧問まで合わせて50にも及ぶ役職に就いていたというからまったくの体制技術者で、しかも建築家としての称号はなかったものの多くの建築的作品を残したので、没後には建築家の名誉号を与えてはどうかという話すら出たほどであった。

現在のスベイン建築

トロハの影響

さて賢明な読者は、すでにお気付きだろうと思うが、戦前のサルスエラ競馬場やフロントン場と晩年の教会建築のデザィンには審美的な観点で大きな差がある。つまり後者には目を覆いたくなるほどのものがあるのである。これは何を原因とするのだろうか。結論から,言えば、協同した述築家の良し悪しによるのである。サルスエラ競馬場では、アル二一チエスとM.ドミンゲス、フロントン場ではS.スアーソという、“25年代の世代”に入る当時のスペインの代表的建築家たちが協同しているのに対し、アルヘシラスの市場や晩年の宗教建築では、そういった有能な建築家に恵まれていないのである。

ここでトロハの、ましてや技術者の審美眼について攻撃しょうというつもりはない。技術者が 建築家の下僕である必要はないからである。むろんその意味でトロハは偉大な業績を残しているわけである。ここでおもしろいと思うのはトロハのみがある書でつぎのようなことを述べていることである。「建築家は基本的な構造知識を持っていれば、それでよい。技術については技術者にまかせろ」というもので、このことは現代のスペイン建築家に安易にしかも忠実に受け入れられ、そのうえ技術者たちが、すべてトロハのような才気にあふれた連中ではないから、結果的にスペインの現代連築が切れ味のよくない、しかも体裁だけはテクノロジーを繕ったみだらなものになってしまうのだ。

ヨーロッパ建築通信 No.5
中部建築ジャーナル より