カラトラバ/Calatrava

70年代後半から80年代にわたって話題を振りまいたのはボフィールでした。彼の最近の作品、つまり本拠地をパリからバルセロナ近郊のSan Justの旧セメント工場の跡、彼がカテドラルと呼んでいるアトリエに戻ってからの作品には良いものがたくさんあります。初期は敵をたくさんつくってしまったという形になったのですが、最近はやはりバルセロナのどろどろとした、業界からは一歩距離をあい変らず置いているのですが、弟子たちも育ち、しかも新鮮な作品をたく実現しています。
それより、10年以上も遅れて話題になったのはこのカラトラバでしょうか。彼は逆でスペイン国内で非常に評判がよく、どこの市町村もカラトラバの橋を持ちたいというので競っていました。しかし、ここ何年かは故郷のヴァレンシア以外では政治家は誰も彼に依頼したいという人はいなくなったというのが現状です。彼の設計は納期が大幅に伸び、コストが数倍に跳ね上がるからです。まあ、同じ問題が、スペイン国内だけでなくヴェネツィアでも、ニューヨークでもありますが・・・。

Bac de Rodaの橋、Barcelona

セビリア万博の橋
ビルバオの空港
メイン・ロビー

搭乗階
増築計画があるが、どう見ても増築しにくい形です。

管制塔
オビエドのコンヴェンション
構造体が落ちて現在裁判中

Tenerifeの見本市会場


ビルバオの歩道橋


バルセロナの通信塔
もともとはもっとプロポーションのいい案だったのだが先端の受信部分の揺れを最小限にするためにずんぐりになった。

受信をする先端部分

カラトラパ,サンティアゴ(1951年〜〉
建築家、エンジニア。カタロニァの南、バレンシァの生れ。デザイン感覚のあるエンジニアとして入気が高い。スペインで
は今でこそバルセロー ナやセビリアでの橋、電話局の送信タワ一等を実現させているが、デビューはチューリッヒ。1981年以
降本拠地もスイスに定めた国際派のスペイン人。

TOTO出版刊 
「我が街バルセローナ」239ページより

サンティアゴ・カラトラバ

1951年スペイン、バレンシア生まれ。68-69年バレンシア美術学校、69-73年バレンシァ高等建築学校、75-79年チューリヒ連邦工科大学でエンジニアリングを学ぶ。79-81年同校で博士号。79-81年チユーリヒ連邦工科大学で助手。81年建築と構造の設計事務所チューリヒに開設、89年パリに事務所開設。

スペイン・バレンシア生まれのカラトラバは国内でも作品を残しているが、デビュー作はチユーリヒにあり、現在も活動の中心がスペインではないという、この国でよくあるケースの建築家だ。この力ラトラバに対しては2つの評価がある。ひとつは建築家であり、エンジニアリングがわかるので、造形感を構造的な解析をしながらデザインすることができるというものだ。これは一般的に、これまでのスペインの建築家が最も不得意としてきた分野であった。つまり建築家というものはアーティストであり、構造や工法などという技術的な'なことには手を染めないという悪習への反旗である。また、エンジニアたちはこの悪習に非合理な設計を強いられ、これに愤らされてすらいる。もうひとつの力ラトラバに対する評価はその逆で、造形的な興味に構造的な合理性を無視してデザインしているというものだ。
前者の例がバルセロナに架かる「バック・デ・ローダの橋」(1985-87)であろうか。これは都市的なスケールでこの橋を正確に捉え土木的ではなく、建築的なレヴエルでのデザインをしているという列。また、後者の例は「セビリア万博の橋」(1987-92)だろうか。これは構造的には斜めに建てられたRCの構造体からワイヤ一を張って橋を吊るという形式になっているのだが、コンクリートの型枠のシステム上の関係でセクションを減設計より大きくし、しかもワイヤーはRCの柱が完成してから飾りつけでもするかのように張られ、ここではスタイルが先行し、構造的理性というものは後まわしにされている。その後の「リヨンTGV駅(1989−94)、「ニューヨークのカテドラル計画」(1991)などではさらにこの傾向が顕著になってくる。ノーマン・フォスターがラバの設計を盜作したとかいうことが新聞をにぎわせているが、ハイテク、ネオ・造形主義が人り込んでしまっている現在の問題がここにはらまれているのだろうか。

TOTO出版
「世界の建築家581人」198ページより