カンデラ (2)/ Felíx Candela

これらの初歩的な発見を書いた論文はこのテーマの神秘のベールを剥いだわけです。そして、次に来たのは闘争、執念、そして孤独でした。あるアメリカのエンジニアリング事務所と何年にもわたってこの状態が続きました。まず、彼らに恨みをかわれたことが私には忘れられない満足感を与えてくれました。「問題にならない」とか「哀れなチャーノ(メキシコ人を卑下した呼び方)が大胆にもアメリカ合衆国を征服しようとしている。」とかいわれたものです。
私の家族がメキシコへ一緒に住むために来てから、他人のもとで働くのをやめました。同じ建築畑にいる弟のアントニオと組んで計画と施工の請負業者を始めたのです。まず、主都でふたつのアパート棟をその組織でやりました。独立して、しかも身に付けたばかりの技術で幾人かの半信半疑のクライアントを説得し、われわれの最初の、そして当時としてはエキゾチックなシュエルの建設を承知させました。これをやるにはもちろんひとつだけプロジェクトを見せるわけにもいかず、工事の総額を前もってフィックスし、われわれが原因で起こりうる経済的な損失ばかりか、法的な責任も全てしよい込みました。
この道にすでに踏み込んでしまったのです。しかも私は建築家としてほんのよちよち歩きをしていたにすぎないことも忘れてしまって、私の興味があり発展させたいタイプの構造の専門家として突っ走り始めていました。R.C.のカーブのついた膜、しかもひどく少ないデプス、そしてさまざまな形態。時には同じ型枠を外さずに何度もスライドさせて使ったこともありました。そうして工場スペースを覆う普通に使われていたシステムとコストで勝負したものですから、われわれが安い建物をつくるという評判が立ってしまいました。
実際のところ、われわれはクライアントの方も経済性ということだけを追求していたのですが、われわれにも作品に美的な評価をする興味というのも出てまいりました。言ってみれば機械的操作で生み出された美と言えるものが副産物として出てくるのです。ただ、純然たる技術が芸術になるには形態の自意識とでも言いましょうか、ちょっとした助けが必要であります。クライアントの方は安上がりならいいわけで、どんな形だろうが、とやかく言う人はありませんでした。当方もアーチの適当な镍とか円柱の満足すべきブロボーションとかの割り出しに限りない時間を費やしたものです。そのこと自体はこれまで通りなのですが、不細工なところをとり除いていつたわけです。美というのはお金のかからないものですし、しかもそれぞれの時ごとに感情へ问かを与えてくれるものです。考えすぎたり、かといって感覚に振り回されるのではなくて,審美的配慮を作品に取り入れることを決心するしかないのです。
くつかの構造形態が,表現性を多大に備えていることを発見してからというもの私は今までやってきたような倉庫の類ではなく、より意味づけのできる建物にこれを応用してみたいという限りない意欲がわいてきました。最初の機会は大学都市の天体観測用のバビリオンや奇跡の聖母教会で実現されました。これがアメリカの雑誌に発表されるやいなや,さまざまなコメントが付けられ、コングレツスや大学でのレクチャ―への招待、論文執筆の依頼などが舞い込んだのです。そんなわけで物を書くことや、英語を話すこと、私のはずかしがりやなところを隠すような手当てをしなければなりませんでした。
時間さえ許せば,最初のこれらの作品の依頼にまつわる愉快な話というのも記録しておけばおもしろいでしよう。いかに舞込む幸運が人々の未来の運命をどこまで変えうるかという証のようなものだからです。まず、実現された作品は土地の建築家たちの注意を引いたようです。それからというもの、彼らはわれわれの最大のクライアントになりました,数年のうちに30ほどの教会,いくつかの学校をやり,そのうちのほとんどがこれらの建築家から請負った仕事で,私が構造を担当したわけです。私はある種の媒体あるいは、異種のアイディアを実現する器具というような異名を付けられてしまいました。たぶん私が刺激しなかったら、彼らは彼らはそういうものは作らなかったはずであります。こうして共生の場ができたことにもなりました。この相互交換で、私は提案とかアイディアを受けてそれを発展させ,構造的安定性を高めるための変更を私の審美的判断のなかで求めました。変更は時には微々たるものであったわけですが、私の判断によれば調和を得るための最も単純な方法であったわけです。

私の実現作の多くに使われた形態の著作者が私であるというわけではありません。これは時の経過と距離を置いて眺めるとわかってくるのだろと思いますが,私としては皆さんが私のやったことだとおっしゃるのに、いささかうんざりしております,もちろんこれらの作品には確固たる継続性というものがありますから同一人物が参画しているとわかり、その者の参画がなければ生まれ得ないこともわかるのですが……。その成功裡は技術的業績だけではなかったのだと思います。大多数の趣向とそれが一致していたのだということにもよります。奇跡の聖母教会の建設中、私の最大の満足感はその地の住民が投げかけた賛辞でしたし、僧侶たちの何をつくらせたのかがわかった時の慌てよう、そして訪れる建築家たちの不満たらしいコメントでした,何しろあの頃はレンガの化粧積みということはやられていませんでしたから。
以上でおわかりの通り,私は有利に立ちまわれたのです,なぜなら私の作品は伝統的な,あるいはンリアスな建築の秤では優劣がつけられないからです。私はいまだ私のやったものが建築として評価できるものか自信がありません。

私の建築家というタイトルは評論家たちをまどわすようです。私にエンジニアとしてのレッテルも張りたいようなのです。実際には両方の職務を行き来したわけであります。誰の土地でもないようなところを「奇鳥」のようにうろつきまわったとでも言えましょうか。実際、誰もいないところで活躍したのですから、それほど難しいことでもありません。私が公の場に立って自分の身分を明らかにすべき時は、いつもコンストラクターであると言っておりました。
もっともそのものですし、それに誇りすら持っております。
私のメキシコでの放浪についての長すぎたを話をお詫びします。そして、御親切にも来席下さったことを感謝します。
ありがとうございました。

ヨーロッパ建築通信 No55
中部建築ジャーナル 1885年8月号