1/5 建築学校

予備課程の理論力学の単位を残したまま、当時のバルセロナ港近くのネオ・クラシック様式の取引所(Llotja de Mar)内2階にあった県立建築学校の入学許可を得たガウディは、まずもっとも初歩的であり、また反理論的な科目“製図”、“人物デッサン”、“建物全体デッサン”の3科目を選択した。
“製図”と“人物デッサン”は初年に前科として必修の科目であったが、“建物全体デッサン”は普通なら2年後に習得する科目だったが、ガウディは初年に終えようとしている。それは彼の父譲りの職人的な実践的な態度が見られて興味深い。
当時の建築学校は、絵画、彫刻、版画といった美術学校と併用されていて、それも1871年に県立アカデミーによって県が設立したばかりで、もしそれが数年遅れていたらガウディの運命は変わっていただろう。美術学校での建築の講義はあったのだが、エリアス・ロージェント(Elies Rogent, 1821〜1897年)の尽力による1871年のこの学校の設立までは卒業しても建築家の資格は得られなかった。そんなわけで、ガウディの入学のころはロージェントによる学制の改革に、カリキュラムの大規模な再編成が出発したばかりであり、入学の翌々年には手狭だった校舎も新市街に建てられた大学校舎に移ることになり、建築学校としての体裁を整え始めた時であった。

1872年にガウディが建築学校に入学したころの校舎はジュッチャ・デ・マルの中にあった。現在はReial Acadèmia Catalana de Belles Arts de Sant Jordi(サン・ジョルディ王立カタルーニャ美術アカデミー)となっているが、もともとは取引場だった。