1/4バルセロナへ

ガウディはいまだ中学校の最終学年に在学中にあったのだが、丁度去っていった友人たちを追うかのように1868年バルセロナで勉強している兄のフランセスクを頼って、大都会へ出ていくのであった。
そして翌年6月にはバルセロナ中等教育を終えるが、当時の学制によれば、専門学校へ進む前に教養課程を修めねばならず、このため科学学部へ一旦入学した。
科学学部での第1年は代数、幾何学、三角法、幾何学解析で、第2年は微分積分、図形幾何学、論理力学を学ぶが、そのうち理論力学は落第している。3年目は自然史、代数、直線三角法、球面三角法、二、三次元解析幾何学を学んでいる。この間の成績といえば、記録は残っていないが、後年本人の語るところによれば全部落第すれすれだったという。といえばレウスのエスコラピオス中学校の成績も必ずしもよくなかった。特にその前半がひどく、算術、地理など落第点をとっている。ところが後半になると逆に算数、地理が優れ、1年生で及第した宗教科目が、4年生になってからは他の科目に比べそれだけが劣っている。これにはガウディの努力家としての姿を見いだせるし、宗教にはそれほど関心を示していなかったこともわかるだろう。
しかし科学学部での講義はガウディをうんざりさせるものであった。というのは講義のほとんどは彼自身が『アブストラクトのアブストラクト』と呼んだように陳腐なアカデミックな空論でしかなかったからである。しかしこれも建築学校入学のためには通らなければならない関門であった。それに兄は既に22歳で医学を修めているのに、弟は21になってやっと建築学校に入るための予備課程を終えるという始末で、しかも1科目及第しないままであった。
この間ガウディは兄と住居を転々としたが、1870年の末ごろには父母も上京し、一緒に生活を始めたことは、政変や黄熱病の流行という社会不穏からガウディの精神的労苦をどんなにか和らげたことだろうか。2万5千人の人口の何といっても田舎町であるレウスから20万人の大都会バルセロナへ出てきた青年にとって、ここでの生活は快適であるはずもない。
そしてやっとのこと1873年9月25日、願望の建築学校への願書を出すのであった。