日誌 Part 1

Dietario III(Laura Mercaderによる)

21日 私の製図板に向かう、それにパドロ氏、ボーラス氏に時間が取られ授業欠席。(Padrós & Borrás社のことで、ガウディはこの工業用機械の商社でドラフトマンとして働いていた)
22日 モンセラ(Montserratでビジャールはアプスの一部の増改築計画をしていた)にビジャール氏と半時間、市電のスタディーをあのたぶん信頼できるデーターを参考にだ。9割がたこれはいける。(市電の開通は1872年6月27日であるので、新しい路線計画があり、モンジュイックの海岸を通り町の反対側に回り込む線のこと) 市役所ではグラブローサの案は却下される。(Grabulosaのこのプロジェクトは今だ発見されていない)
23日 午前中半時間をフォンセレ(Fontserèについては後述)、セクションに2時間ビジャール。
24日 1時間フォンセレ、燭台のディテール、それに2時間半をビジャールの祭壇裏の龕に
25日 3時間半をビジャールの祭壇裏の龕に。2時間半セララックのバカンス用の住宅。(Serrallachは建築学校の材料と施工の教授であり、当時セルダの都市計画案のチェックをしていた。これに関係しモンジュイックの麓にプロジェクトがあり、これをガウディが担当していた)難局打開にはかなり練らねばならない。
26日 セラジャックの小屋の引き渡し、鉛筆描きだけだ。マレーラ嬢の家具、エレヴェーションとディテール。
27日 市役所から要請されていたグラブローサ氏邸改装の設計概要を作る。プラン2面、ファサード2面これにセクション。朝8時から午後5時まで一日中費やす。軽い病気だと言って講義を休む。フォンセレ氏にはできない。
28日 市役所のオフィスにてグラブローサの図面のプレゼ、議会では市電について議論、株式会社設立のため。私にはコケリル邸のアルバムをよこした。(John Cokerillは1790年スコットランド生まれ。1807年にベルギーのリエージュ近郊に移住し、1835年から従来の木炭から更に火力の強い石炭を使い、製鉄、機関車などを製造、ベルギーの産業革命に重要な役を果たした人物。1840年に亡くなるが、同名の株式会社が設立され事業を継続。この家というのは工場建設のために1814年に買い取ったセランの城のことか。現在もこの工場は鉄道関係の)鉄のライオンのスタディ(メルカデールによればこれがLionとあるがライオンであるかもしれず、ライオンだとすればフォンセレのシウダデージャ公園の門扉の鉄細工にライオンがあり、このことかもしれない。また、マルティネルはこの28日分が欠落している。)
29日 セララックに1時間、マスノウ祭壇のセクション、プラン提出。(このプロジェクトについては今だ分かっていない。マスノウはバルセロナ近郊の海岸の町)アルバム、ラウレンの最初の2巻を見る。(Jean Laurent , 1816年〜1886年はフランス出身のカメラマンで1843年マドリッドに移住、1855年以降写真に興味を示し、19世紀最大のスペインのカメラマンと呼ばれるようになる。イベリア半島中のモニュメント、民族、風景などの写真を撮り、このアルバムを建築学校が入手していた。)