コミージャスのチャペルの家具 Capilla-Panteón de Sobrellano, Comillas (1878-1881)

コミージャスのチャペルと神学校


マルトレイによるチャペル

カンタブリア地方のコミージャスの第一侯爵ドン・アントニオ・ロペス・イ・ロペス(Don Antonio Lópes y Lópes, 1817〜1883年)は生地であるこの地に宗教施設群の建設を思い立ち、これをガウディの師である、ジョアン・マルトレイに設計依頼している。居館(Palacio Sobrellano, 1833〜1906年), チャペル(Capilla-Panteón, 1878〜1881年), 神学校(Seminario, 1883〜1890年)がそれで、神学校は最終的にドメネクが完成させている。いずれもマルトレイらしい、ネオ・ゴシックのスタイルでデザインされているが、この現場監理をしたのがガウディと同級生のカスカンテ(Cristóbal CascanteColom, 1850〜1889年)であった。この繋がりか、あるいはロペス侯爵が ガウディをパリ万博のショーケースで気にいっていたグエイの義理の父であるという関係からか、あるいはマルトレイ自身の推挙なのか、チャペルの家具をガウディに依頼。また、居館はカミリオ・オリベーラス・ジェンサーナ(Camilo Oliveras Gensana, 1849〜1898年)というガウディ、カスカンテの同級生が担当、また、神学校はアントニオ・ロペスの最晩年に始まった工事でドメネクが完成させている。ガウディ自身はその後エル・カプリチョ邸の設計をアントニオの息子であるクラウディオ・ロペスから受けている。
ガウディの設計した家具はチャペルの礼拝堂の礼拝用の椅子、礼拝者のベンチ、2種類のタブレットである。いずれもチャペルに合わせたのかネオ・ゴシックであるが、詳細で奇妙な部分が見られる。リベルティー調のドラゴン、あるいは脚に奇妙なモチーフが刻まれている。









ところで、このアントニオ・ロペスが生まれたのはこの神学校のあるあたりで、貧困の家族に生まれわずか2歳で父を失い、母は残された子供2人を育てることができずアンダルシアの親類を頼って10歳で故郷を捨てて働きにでている。
14歳からは船に乗り、10年間雑用係として勤めた。カディからキューバ行きの船に乗ってキューバでわずかな資金で雑貨商を開き、そのうちにカタルーニャ出身の家族と知り合い、持参金目当てに娘の一人と結婚。サンティアゴ・デ・キューバに本拠を構え、奴隷売買から、儲かる事なら何でも手を付けキューバに鉄道さえも開通させた。
これらの事業の中には海運業も含まれ後にCompañía Transatlántica Españolaと呼ばれるもので、もともとはこれは奴隷船だった。(キューバでは1880年まで奴隷売買は合法であった)1853年にはキューバコレラが大流行。3人の子供とともに家族は妻方の実家バルセロナへ築きあげた巨万の富とともに移住することを余儀なくされた。
僧侶であり詩人のJacinto Berdaguerはガウディの数少ない友人の一人であったが、彼が2年の間航海に連れて行ったという関係だった。1873年コミージャス候としての称号を得られるが、今でも怪しげな過去があるとして、バルセロナに立つアントニオ・ロペスの像を撤去せよとう要求もある。

アントニオ・ロペスバルセロナにいた頃に住んだ家 パラウ・モイア(現在州政府の文化局)
2011年9月3日撮影