モデルニスモ Part 26 マソ

ラファエル・マソ Rafael Masó

正確にはモデルニスモと呼べないかもしれないが,ラファエル・マソ・イ・バレンティ(Rafael Masó i Valentí, 1881〜1935年)はバルセロナの隣県ジロ−ナでその巧みな文筆力と雄弁をもって芸術運動を展開していた。彼は建築家であり,詩人であった。新聞社の編集長,そして画家でもある父を持った彼を,その作品の詩的な造形と色彩とに伺い知ることができる。彼の情熱は地方文化芸術運動にと向けられ,その職業建築家としての出発と同時に多くの有能なる協同者を集め彼のプロジュクト遂行の準備をしたという。そして彼の芸術と文化の運動は1913年に「アテナ協会」設立によって開花した。多彩な内容と特質的な活動が常に短命であるように,この運動も5年間でその幕を閉じてしまった。にもかかわらず,彼自身はそれを母胎に芸術学校開設を市当局に訴え,市議会に特別委員会を置かせたが,最後の最後その指導原理で市当局と対立し,離散してしまった。カタルーニャナショナリストとして投獄の憂目にあい,市会議員のイスまで失ったこともあり,サガ口 (S’Agaró, ジローナ近郊)の都市計画の着手,回教浴場の修復など精力的な活動家であった。彼の建築は,モデルニスモに続く ノウセンティスモ(Nousentisme, 1900年主義の意)の過渡的なものとして今日評されている。

A+U 1974年5月号より
続く