モデルニスモ Part 43 ジュジヨール


ベレンゲールより13ほど若く,その師ガウディより27歳若いホセ・マリア・ジュジョール・イ・ギルべルト(Josep Maria Jujol Gilbert, 1879〜1949年)はバルセロナの隣県タラゴナに生れた。タラゴナの美しい自然を愛し,イマジネーションと色彩による異常なセンセーショナルな才能を持っていたガウディの協同者の一人であった。ジュジョールもペレンゲールと同じように教職に就く父を持ち,幼い頃からの厳格な教育をうけ,バルセロナ建築学校ではガウディとは違って優等生であった。
1906年建築学校を卒業して建築家の称号を得た彼はガウディがちょうどカサ・バトリョの改築とカサ・ミラの建設を進めている時,助手代理としてバルセロナ建築学校に職を得,しばらくして正式な教授として迎えられた。と同時に工科大学の教授でもあったジュジョールは,装飾と色彩に関する有能な教師であったという。建築的エレメン卜の模写の指導という従来から行われていた教育法ではなく,あくまで創造性を育成することにその教育の方針を置いていた。当時根強く支配的なカタルーニャ文芸復興と結託していたネオ・ゴシック様式の崇高かつ荷重でもあった伝統を打ち砕き,ガウディ様式を打ちたてた一人であった。
ジュジョールの直接の生徒でもあった、後のガウディの弟子ラフォルスはその追憶の記の中でこう述べている。「彼の生存中われわれの間で評価できなかった彼の芸術性に対する正当性を心から望んでいる。彼の目立たない性格,彼の時に呆然とさせる誠実さ,それらは彼の名声の獲得を阻むものであった」彼はその師と同じように物質的な貧困というものと戦っていた。小さなアバ一卜に住み,仕事場に居を構えるといったいわば中世的な方法によって作業と思考を展開していった。