ガウディの謎 Part 5

6 1888年頃のガウディ
別の視点からこの建築をみてみることにしよう。1888年頃ガウディはいつたい何をしていたのだろうか。パラシオ・グエイの建設(1885〜89)を始め,以下次のような作品があげられる,アストルガの司祭館(1887〜94年)、サグラダ・ファミリア教会アプス部(1887〜93年), カディス海洋博トランス,アトランティ力社パヴィリォン(1887年),バルセ口ナ万博トランス・アトランティカ社パヴィリオン(1888年)、サンタ・テレサ学院(1889 〜94年)一方ベレンゲールは1887年,21才で建築学校を退いているので,この建物は処女作にあたるわけで,経済的理由からAugust Font(1846〜1924、 主要作品はスペイン広場の闘牛場)のもとで午前中働いていた時期で,その後1892年にはグラシア市の巿の建築家Miquel Pascual(?-1917年)のもとで働いていた。そのため後にベレンゲ一ルの作として認められたアパートやいくつかの公共建築はこの時期になされたものである。そのうちラ・リベルター市場が1893年の日付で最もボデ一ガのそれと近く、次いで1900年グエイ伯のエル・ボアルの家,1904年のグエイ公園内の家,そして1909年のオロ通り地のアパートなどが,これまでベレンゲールの手になるものと知られる代表的な作である。
周知のようにべレンゲ一ルは終生建築家の称号は得なかった。21才の時,結婚による生活上の問題から学校を退き建築家のアシスタントとして生計を立てねばならなかった。だが午後はガウディのもとで費やし, 彼の建築への情熱や愛情は捨て去っていないのである。こういった事情を全て知っていたのは他ならぬガウディ自身であった。ここで推測が許されるものならば,ガウディは仕事のないベレンゲールに仕事を与え,手を貸したということである。それは作品の系譜から見ても明らかであり,後に試みた分析からも明らかであり,管理人ホアキン氏の話とも一致する。
サグラダ・ファミリア教会 アプス部インテリアより

トラスアトランティカ社パビリオン(1888年

ベレンゲールについては
http://d.hatena.ne.jp/Arquitecto/20110915/1316111170
にあります。ただし最初にこのボデーガ・デ・ガラーフの写真が出てきます