3/3 イスラム様式からの決別

トラスアトランティカ社のパビリオン
ガウディの第二期、つまり歴史様式の中から自己の様式を探求しょうという時期のうちイスラム様式の盗用の作品は、グエイ別邸で終わりを告げる。例外的に1887年のカディス博と1888年のパルセ口ーナ万博のトラスアトランティカ社のパビリオンが付け加えられるが、これについては疑問が残っている。
というのもこれまで1887年の力ディス博のパビリオンが翌年のパルセ口ナ博のパビリオンにそのまま転用され、それらの作者がガウディと考えられていたのである。両パビリオンの出展者は同一会社であり、またそれを裏付けるかのようにガウディは1887年コミ—ジャス侯、つまりトラスアトランティカ社のオーナーと南アンダルシアを旅行している。またラフォイスは、パビリオンをガウディのものとしている。
ところが、両パビリオンの記録はその後も確認されず、後年までその性格が明らかにされなかったが、1960年後半になってマルティネル氏が1887年9月18日付けの「カディス新聞」に海洋博覧会の記事を発見したのである。ところがそれによれば、トラスアトランティカ社のパビリオンはマエストロ・デ・オブラのアドルフォ・ガルシア・力ベーサス(Adolfo Garcia Cabesas)が建てたことになっているのである。これで後年の実証主義者たちはこれを手にとり,力ディスのパビリオンはガウディのものではないと考えている。
それではラフォルスの文害保管係としての価値をどう見るか、コミージャス侯爵と南スペインへの旅行をどう解釈するか、それにもうひとり重大な証言者がいる。それはボナベントゥーラ・バパセゴダBonaventura Bassegoda(1862〜1940年)である。つまり彼の1929年3月14日付けの“ラ・バングアルディア"紙に書いた"ガウディの想い出"を読むと、パセゴダは1888年の万博ではトラスアトランチィカ社のパビリオンの脇に自分の作品をつくっていて、ある日ガウディを彼の友人とともにパビリオンに辱ねた時に、サンドイッチ、へレス酒、葉巻をごちそうになったことが書いてある。つまりその内容からはパビリオンの作者がガウディであることを断言しているのである。