巨石時代のメノルカ Part 2

巨石時代のメノルカ
メ ノル力島というのは西地中海にあるスペイン・バレアーレス諸島の最北にある。面積からすれば,このバレアーレス諸島の第二島であるが,それでも702Km2という小島である。メ ノルカに人類の痕跡が認められるのは紀元前4000年頃からで,しかもどうやらイベリア半島から渡り住むようになったのではなく,マジョルカ、更にはサルデニアという地中海の島々を経由して住みついたのだということが考古学的調査からわかっている。
ヨーロッパだけに限って巨石遺構をみてみると、巨石のオリエントからの伝播の流れをふたつの潮流にみてとれる。つまり、ひとつはデンマークを主とするスカンジナビアの分布、もうひとつはイべリア半島を中心とした西欧での分布なのだが、メノル力の巨石はこの主潮流からはずれている。しかし、サルデニア島のヌラーゲというサイクロプス式遺構と関連があるナベータなどの遺構があって、孤立した文化圏を形成していたというわけでもない。

ナベータ
ナベータ(船の意味)の名のとおり,ちょうど舟を逆さに置いたような美しい形をレている。オリエントでふつうメガロンと呼ばれている構造物と考えていいだろう。 ナベータはアビタフルとして使われていたといわれるものと,埋葬用と2つに大別される。埋葬用のナベ一タはこれまた,さらに2つに分類することができ,平面プランが円形あるいは楕円のものと,長方形のものとがある。いずれも上部ほどスパンが狭くなっていき,頂点で閉じるという疑似ポールト構造で、埋葬用のナベータでは内部が2層構成、小さいながら吹き抜けあり,覆道、空気抜き,アブスとかなり巧妙な空間構成を生み出している。島の巨石構造物ではもっとも古いもので,マジョルカにも分布している。
遠く船を繰りながらこれらの島々に渡ってきた巨石民族は何らかの理由で鳥に定着することになり,彼らの長い航海の軌道をこうしてオマージュとして巨石で構築したのではないだろうか。

タラヨット
円形または方形プランの空石積みの構造物で,覆道がありこれを通って中央に小室を据えている。最も機能的に説明のつかないモニュメントであろう。なぜなら外側を大きな石のブロックで積み上げ、小室の内側はそれより小さな石を並べて築きあげ,この間を石や泥でつめて両構造を一体化するという構法がとられているのだが,巨大な大なピラミッドにも似た外観にもかかわらず,ほとんど居住部分のスペースがない。現視点から見ればこれほど不合理な構造物はない。
現在では塁壁に囲まれた内側に建ち残っていて、防御用の見張り塔として使われていたらしいことがわかっているのだが,これはずつと後期のことであり,タラヨット建設当初は何のために建設されたのか考古学者の意見はさっぱり定まっていない。それよりも,もっとずっと後になって建てられ,現在でも島に散在するピラミッド状の途方もない并戸があるのだが,この方がタラヨットの本来的な機能であったとは考えられないか。

タウラ
カタロニア語でタウラは机を指すように,巨大な石柱の上方に水平村が乗るというこの巨石遺構は,馬蹄形プランの塁壁で常に囲まれている。これも機能上にはまたまた説明のつかない装置で,この中央に建ち上がる材を使って屋根が架かっていたのだとする説すらある。しかも—方には火が焚かれていた跡があり,盾を乗せた入口が正面に常にあり,タウラを囲むようにいくつもの放射状の礼拝所の
ようなコンパートメントが並んでいることからも,宗教色の強い建物であったろうという想像がつくのであるが,この礼拝所のような塁壁を押さえているバットレス状のエレメントを使って天体観測の装置として機能していたとしてもまったくおかしくはないのだ。

余談
巨石民族はなぜこの地中海の小島にやってきたのか,なぜこの島に定着したのか。人類の記憶はとうに忘れ去ってしまった。現在は美しい無人の入江とともに,島の観光資源のひとつとしてわずかながらの観光客がここを訪れるだけだ。島には無限なほどの巨石遺構が残されている。保存がよいというよりも,何かしら島民から尊ばれて手がつけられないと言った方がいい,民家のすぐ庭先にあったり、あぜ道を塞ぐように建ちすくんでいるのだが,手つかずのままになっている。日本の古墳とは対称的な運命をたどっているといえよう。
また,これらの研究も結構進んでいて,かなりの研究書のたぐいが出版されているのは,18世紀のイギリス支配期での伝統を受け継いでいるからだろう。イギリス人植民者は島民に文字を愛することを教え、印刷術を教え込み,ジンの製法を伝えた。メノルカでは朝飯にジン(ジネットという愛称がある)をひっかける。ビンのことをスペイン語のボテージャとは言わずにボトルと言うし,イギリス風の上げ下げ窓が多く,これもフィネストラと言わずにウインドウと言う。格子状の都市計画を残し,パッラッディアン・スタイルの大邸宅をいくつも残したのもイギリス人であった。マホン市のソースがマョネーズの起源であるということを知る人も多いだろう。

中部建築ジャーナル

1985年7月号より