スペイン戦争に消えた建築家


トーレス・クラベ自画像

トーレス・クラベ回顧展
トーレス・クラベという建築家がスペイン・カタルーニャにいた。しかし今となってはだれが彼の名前を記憶にとどめようか。まったく忘れられてしまったかのようだ。現代建築史の中にも。まずは登場してこない。といっても、彼を見出そうとするのが土台無理な話かもしれない。トーレスは33歳という若さで死んでしまったし、それに何といってもスペイン戦争で、フランコ軍の率いる反乱軍が勝利を得てからというもの、その反対側で戦ったトーレスの名など、政治的な思惑も絡んで、記録されるわけもない。
トーレス・クラベは反乱軍の勢いが増し、政府が最も戦士を必要とした、敗戦間近の1938年に共和軍に従軍出兵し、彼の激しい建築に向けた情熱と同じように、その政治的信条をファシストに向けて、そして爆撃に散ってしまった。
20年代後半に始まり、スペイン戦争の終結までのスペインは、建築ばかりではなく、文化一般に貴重な発展をみせたのはよく知られていることで、文学上の“27年代の世代”などは、その象徴的な事柄といえる。ところがこのスペイン戦争は、ヨーロッパの近代運動に同調していた。こういった発展の芽を、ほとんど根こそぎ摘み取ってしまった。ガルシア・ロルカは銃殺されているし、アントニオ・マチャードも亡命先の南フランスで犬死している。ピカソはフランスへ逃げたし、後にCIAMの議長を務め、ハーバード大学で活躍するセルトも国を見放している。あまりこれも知られていないいところでは、マヌエル・アイスプルアというバスク人の第1線にいた若き合理主義建築家は、32歳の若さで逆に共和制政府の前に銃殺されている。メキシコには3万人のスペイン人が亡命したといわれているが、そのなかには、後にシェル構造で先駆的な業績を残すカンデラ(日本では英語読みでキャンデラと呼ばれているようだが)がいたし、アルゼンチンにはアントニオ・ボネットといった建築家が去っていった。
また何らかの事情でもって、亡命も失命もしなかった建築家たちは、新体制の同盟者出ない限り、容赦無く、建築家のタイトルを奪われた。例えば、ガウディと同時代に活躍した老大家で、地方主義者の大御所として存在していた、プーチ・イ・カダファルクなどという、すでに事実上現役から退いていた建築家なども、その職能を奪われている。亡命者は無論のこと建築家の称号をはぎ取られているわけだが、そのため70年代に入ってからセルトがバルセローナで二つの作品を実現しようとした時にも、建築申請は彼の名前が使われなかった。このようにスペインは開花しようとしていた新時代の新しい文化の担い手であった、多くの進歩的知識人を失ってしまった。
ジョセップ・トーレス・クラベは1906年、バルセローナに生まれている。幼くして父を亡くしたトーレスは、建設業を営む父に育てられたのだが、もの心ついたころから、画家になることを希望していた。この頃のデッサンの習作が残っているが、それはまず黒インキのペンでスケッチしてみて、同じものを改めて水彩で描いているという周到なものである。
ところが、彼が18歳の時、将来の進路を決めようとする前にしたイタリア旅行が、彼の将来を狂わせ、トーレスを画家から建築家へと進ませてしまうのであった。このイタリア旅行はもっぱら建築のモニュメントが彼のスケッチ・ブックを埋めてゆき、建築への急激な関心の高まりが、そこに明らかに察せられる。特にミケランジェロとの出合いが、彼を建築への道に決定的に導いていた。
帰国してからは、当然のことのように、伯父の建設会社で働くようになる。当時バルセローナで、一番大きな建設会社であったその会社でトーレスは、短期間のうちに膨大な量の実務を経験したのである。新古典主義におぼれていた当時の建築界で、彼は古典主義建築をスケッチすることから習ったディティール豊かな外観と、建設会社という極めて現実的な機械合理主義的な方法論を両翼に抱えて、建築の道へ入ったのである。
29年に終えた建築学校の卒業設計は、セルトとスビラーナとの共同による海岸線の夏期休暇村計画で、ここでははっきりと歴史様式と別れを告げ、建築を時代のコンテクストのうえでコンセプチュアルなエレメントに解体し、新たにブログラミングするという方法で、それを仕上げている。
同年、セルトはル・コルビュジェのもとに行ってしまうが、自分の家業である建設会社からは抜けられない。彼は、この時すでに現代建築と都市の行くすえがどういうものであるかを卒業設計に見られるように、正確に見通していたのだが、そうなるとイニシアティヴのとれない家業が、むしろ負担となって彼を押し殺してくる。こういう時にパリから帰ったセルトを中心にした8人の仲間でG.A.T.C.P.C.が作られた。
G.A.T.C.P.C.は30年から丁度終戦(39年)までの時期、セルトの社会主義理想を反映するような活動をしている。ここでのトーレスは機関誌「A.C.」の事実上の編集を担当したほか、カタルーニャ自治政権ジェネラリタートと結びついて実施作品や都市計画を驚くほどの量をこなしている。
トーレスはグループの中でも更に急進的な思想を明らかに見せている。例えば当時社会問題となっていた最少限住宅を実施するために、土地、家屋の国有化法を地方議会に通過させているし、学生時代の休暇村計画を実現させるために、カステルデフェルツの休暇村計画を立案し、これを労働組合、文化団体、学校、スポーツ団体に呼びかけ、建設助成の会員を募ることで大衆運動のバック・アップを得ようとしている。実際会員は80万人まで膨れ上がっていた。また建築家協会にかわって、建築家連盟を結成し、新体制の技術顧問や建築家組織の再編成をはかったばかりでなく、建築家の職能分担を時代に即したように再構成するため、建築教育法の改正案まで提出している。
こうしてトーレスは10年に満たない建築家の生涯のうち、15の建築と都市計画を提出し、6つの実施作品を残している。しかも建築や都市の合理化というフィジカルな領域にとどまらず、より根本的なところで建築と都市の合理化に戦ったのであった。
トーレスクラベ展

トーレス・クラベ回顧展
場所:バルセローナ建築士会展示場(カテドラル前)
期間:1890年5月15日から6月中旬
主催:バルセローナ建築士会、雑誌「2C」


1933年8月、アテネで開催されたCIAM第4回大会の記念撮影 左からトーレス・クラベ、セルト、ボネット、トーレスクラベ兄、リカルド・リーバス

1934年アンダルシア旅行の記念撮影
左からミロ、ライモーナ・トーレストーレス・クラベ、セルト、モンチャ・セルト、ピラール・ミロ、アデリータ・ローボ
中部建築ジャーナル
ヨーロッパ建築通信No.16 
1980年7月刊