ビジャールからガウディへ

地下聖堂ヴォールト部分


1974年4月撮影

さて、1883年末にサグラダ・ファミリア教会建築家となったころのガウディの教会建設に対する構想をここで見てみることにしよう。ビジャールの三身廊のブランはマリーナ通りと平行に、つまり南北(正確には南東と北西)を軸に計画され、1883年末には北端の地下型堂部の基礎工事および柱が半ば建っていたことは既に述べたようである。これに対しガウディは方形の敷地に対角線状に配置したかったという。というのも礼拝式上から寺院のアブスを東におき、身廊全長を最大限にとりたかったためである。しかし既に地下聖堂の工事が始まっていたので、ビジャールの南北軸平面配置を受け入れざるを得なかったが、身廊を最長にとるということを捨てず、南面の正面大階段を敷地からはみ出た、エイシャンプレのブロック外に計画したのである。ガウディの計画では主正面に当たるマジョルカ通りは大階段下を走ることになっていた。
いずれにしろ始まっていた地下聖堂は、ほぼビジャール案を踏襲したものであることはビジャールによる教会の原案である45枚の図面から、柱頭、アーチ様式までも確認される。しかしながらビジャール案では半地下となって地中に埋まっていたはずの地下聖堂は、堀がめぐらされることで露出する。全くの地下を造らず、地階は十分な採光・換気をするというのはグエイ館以来、その後もガウディはしばしば設計している。むろんこれで地下聖堂へアクセスとなる螺旋階段もガウディの設計と考えられるわけだ。
サグラダ・ファミリア教会の敷地のあるサン・マルティ・プロベンサルスは1877年になってバルセロナ市と合併しているが、同年の統計によれば、人口は二万4千829人,まばらな民家と工場が散在するのみであった。ところがガウディ自身は現在のパルセロナ市の発展を明確に予知し、次のように語ったのであった。『サグラダ・ファミリア教会はすべてに運がよい。その位置は市心にあり、バルセロナの 平地の 中心に ある。 寺院からは海と山が、サンツとサン・アンドレスがベソス川とジョブレガレツト川が同距離にある。』