モンテレイ宮 Palacio de Monterrey

19世紀末最後の植民地であるキューバを失なったスペインは同時に98年代の世代を生んだ。建築ではその頃マドリッドでわずかな時期にネオ・プラテレスコ様式というスタイルがもてはやされた時期がある。具体的には1900年のパリ万博でエッフェルが新時代にふさわしい塔を建てて話題を作ったのに対し、スペイン政府はホセ・ウリステ・ベラーダJosé Urioste Velada (1850〜1909年)によってメランコリックなスタイルのスペイン館が出展された。しかもこのスタイルは政治的な背景により国内での評価は高く、当時の公官庁のスタイルとして広く使われるようになった。ウリステが手本としたのがこのモンテレイ宮であった。
この宮はモンテレイ第三侯爵アルフォンソ・デ・スニエガ・イ・アセベド(Alonso de Zúñiga y Acevedo)によって建設依頼される。第二侯爵は歴史的にも特記すべき人物であるが、その子は時代の建築家ロドリーゴヒル・デ・オンタニョンに設計依頼をしている。しかし、それはスケッチ程度らしく、実施設計はその後ペドロ・デ・イバーラPedro de Ibarra(この人物については記録が無くカトリック両王の時代にゴシックで一世を風靡したJuan de Álavaの子ではないかということぐらいしか分かっていない)、ペドロ・デ・ミゲル・イ・アギーレPedro de Miguel y Aguirreによってその建設が1539年1月18日にはじまった。ここで重要なのはこの建物の作られた時代がいわゆるスペインの黄金世紀と呼ばれるスペインの栄光の時代であり、それを反映した華麗さがあるからであった。それもあって、ウリステが1900年万博に引用したのであった。
しかしながら実際にはこの建物は原案の方形ブランに各コーナーに塔が建つ事はなく、完成に至っている。


1992年6月撮影