5.セルダ案の分析

「人間の行為の産物というもの全ては,それを作った人の熟考の意に,そうでなければならない理由がある。偶然とかいうものは我々が疑を持つ,あるものを説明するためには容認できる。しかし,決していかなる概念をもってしても入間の行為を我々に満足げに,あるいは哲学的に説明しえないのである。そしてあるべきものは,あるものの存在の理由と概念の研究であるが、それはいつも見出されるものではなく研究を要する。ところが,怠惰は研究作業を妨げる。すべてに簡単に妥協する。そして,偶然を持ち出して満足するのである」。(セルダ)
というセルダ自身,裏を返せば,彼のいかなる計画案,たとえ一つの線であろうと,根拠のないものはないのである。彼の友入,そしてセルダがつくっていた「バルセロナ拡張奨励協会」の事務官をしていたアンへロンによれば「セルダは決して第一印象で物事を判断しなかつた。彼のテクニカル・ヴォキャブラリーに偶然という言葉は存在しない」という。そして「セルダに軽卒なイマジネーションに頼るということはなく,すべてその前に厳密な計算に基づいている」という。そして,当時の雑誌『公共建設の誌』の編者によれば「彼には一つの線すら根拠のないものはなく,その存在の理由のないものはない」。
セルダ案はほぼ海岸線に沿って平行にダリッドが引かれている。全体は大きく三つの20X20ブロックに分けることができ,それぞれは海岸線に対して並列に並べられ,中心軸のように幹線道が走っている。それぞれのブロックに引かれた,これらの幹線道によってさらに大ブロックは10X10ブロックに分けられ,ついで,それを四等分した5 X 5のプロックにと細分されるようである。(これらは現在の市内交通の現状からみても証明できそうである。プロトタイプ化したセルダ案に引かれた5本の大路を重ね合わせると,これまた幾何学的な一致がみられる。さらにはほほ'確実に教会の位置,公設市場の位置,都市公園の位置,病院の位置といった公共施設が割り出されていることがわかる。これらの数は,教会(住民のコミュニティ・センターとしての)25ブロックに対して1,公設市場が100ブロックに対して1,都市公園力;200に対して1,病院が400に対して1の割合で算出し得る。また,人工密度はほぼ250人/ヘクタールである。都市内交通については先に述べたように,セルダは「建築物と交通とは互いに関係を持ち,分かちえないことである」といい,新しい都市内交通手段の正確な予測をしていたようである。つまり,各ブロックの角が落され,それも道路幅20メートノレに対して,同一の陵辺となるように20 メートル分だけ切っている。中央をロータリーとすることで,動線の交叉をなくしている。《図"ただし,現在は一方通行となっているため,このモデュールが崩されてシステムが都市を締めつけている結果となっている。市内には複線の鉄道と市内電車が道路交通物とは別に考えられ,これらに海上交通を含めての一大拠点が考えられている。
「ブロックは建物の基本的集合体である。なぜなら,もっとも原型で自然な個体が家であるとするならば,これはほんとうにまれに孤立した,そして独立した単位として存在しうるものにでくわすのである。というのは,家とは他のコンビネ一シヨンとともに一般に働くからである。つまりは,ブロックとして形成するゆえんがここにある」(セルダ)とコミュニティの問題をとりあげ,住宅の集合化を説く。そして,「個人的興味の気紛れからくる無人の家の不可能さ……そして,法律や法規によって,ブロックの形成を立法化させる。そのブロック形成により,全ての建設者に完全に同一となり,つまり法の前に全てが平等であるようにである。この場合,ブロックをある形態にプロトタイプ化するのは不可能であり,それよりは四角を受け入れた方がよい」。「そして,完全な独立性とプライヴァシ一が保たれるようなコンディションをブロック集合体は持たねばならず,それには巨大なパティオ,というより庭をそれぞれのブロックが持たねばならない」。(セルダ)-とはいえこのブロックの概念,それも四角いダリッド状のプロックをすぐさま考え出したのではない。まず,当時入手できうる市街地割の各国の例を彼は手に,そのうえ,スペインで当時研究されていたプロックの方法を試行した。
(図11図の左上より時計回りに:ブエノスアイレス(1583年),メキシコ(1750年),パナマ(1600年),キューバ(1768年),USA(1784年)、ペルー(1780年)、ロンドン(市外)、ロンドン(新建造物),ロンドン(市内),ニューヨーク)セルダは,とくにスペインの南アメリカ植民地時代にスペイン自身が建設した数々の街が,その後数世紀も経てその機能を失わないでいたことに気付いていた。セルダばかりでなく,英国人ジエイムズ・ヴェツチュ(James Vectch,1789 〜1869年)はメキシコに10年近く滞在し,エドウィン・チヤドウイック(Edwin Chadwick, 1800〜1890年)の協働者として,バーミンガムの拡張計画に参加したが,それも南アメリ力の植民地都市からヒントを得たものという。また,スペインでもマドリッドでセルダとほほ'時期を同じく,都市計画案「線状都市」を提案したアルトゥーロ・ソリア・マタ(Arturo Soria Mata, 1844〜1920年)にしても青春期期をキューバとブエルト・リコですごしている。
セルダは南アメリ力の植民地都市以外にも,ニューヨークシャーとロンドンの都市計画についても知識があり研究したことが考えられるが,いずれもその予備計画案〖図にみられるように,ブロックは矩形である。当時,スペインにおいても矩形のプロックが一般化しており,ビーゴのホセ・マリア・ペレス(José María Pérez Carasa, 1889〜1962年)による新市街計画案(1853 年)のブロックも43x100 メー トルという矩形であり,バルセロナにしても先例としてあるバルセロネータ地区(1753年〉の極端に長い矩形がある(約6 x100 メ-トル)。
どのようにして,セルダが方形のブロックにたどりついたかは明らかではないが,明確な理由として,均一性,成長の無方向性が正方形にはあるからである。このブロックによれば,道路幅は20メートル,うち車道が10メートル,そして歩道が両側合わせて10 メートル,またブロック内の面積割は建築面積28パーセント,通路面積30パーセント,空地面積12パーセントとなっている。建物の奥行きは20 メールであるが,セルダ案の成立経過をたどると,15 メートル,17.5 メートル、そして20メートルと、最終的には1859年のセルダ案になるが、「バルセロナ拡張奨励協会」でセルダが実現させた建物の奥行きは24メートルあった。おそらくこの4 メ—トルの増加分はセルダのいう小さなパティォのある住宅論から外れるようであるが,施主側からの要求に勝つことができなかったのであろう。あるいは当時4 メートルという寸法の違いがどれだけの重要性を持っていただろうか。


セルダが設計されたと考えられる建物
上は1976年撮影
下は2011年3月13日撮影

ラウリア通りとコンセホ・デ・シエント通りの交叉点の建物は施主が「バルセロナ拡張奨励協会」であり,その社長であったセルダが,この建物に関係していたことは想像がつく。この建物は奥行き10 メートルで,角地にCの字型に建てられ,オーナメントのない,シンメトリカルな建物で,いかにもセルダの作品らしい。というより,そうであろう。プランを見ると中央には廊下が走り,それを軸に線上に住宅が配置されている。それは間仕切り壁だけで簡単に分割でき,また改装できるという非常にフレキシビリティに富む空間で,家族の増減にも簡単に対応できる。ファサードにしても,そのきわめてシンメトリカルな窓の配置は内部空間のフレキシビリティを損わさせないためであろう。また,全ての戸,扉は壁の内に建て込んであるのも空間の増減において障害物とならないためであろう。
他にもセルダが突現させたと思われる作品はラウリア通りの住宅で、現存する図面からすると,施主イルデフオンソ・セルダ,建築家レアンドロ・セラャック(Leandro Serrallach)である。
セラャックはセルダの会社で協働していた建築家であり,この家の設計者であるかのようだが、セルダに建築家の称号を貸したものと考えられる。この家は1864年に建設され,やはり建物の奧行きは10メ—トルである。(写真は)セルダ案の最大の建築への実現化は何といってもパティオ側のファサードのデザインである。それは鋳鉄の柱、鋼の梁、そしてガラスと木の窓で,合理化し,単純化し,モデュール化したギヤレリーである。それらはバルセロナの都市拡張が始まった時期に建設された建物に始まり,モデルニスモの建築家たちに受け継がれ,機能主義者建築集団GATCACへと続いて使われていった。とくに,華麗な正面ファサードを競ったモデルニスモ期の建築家達,ガウディ,ドメネク・イ・モンタネル,ブーチ・イ・カダファルク等の裏正面ファサードの単純で明快なデザインに見るべきものがある。

A+U 1976年11月より

続く


セルダ案のスキーム