3/15 カサ・カルベ

ベジェスグアルド邸と時を同じくして、バルセロナ新市街区エイシャンプレにガウディはもうひとつの都市型住宅を設計している。
それはグエイの同業者であり友人であるカルベ兄弟の依頼で、主階を事務所、ニ階を自らの住居、更に上を貨貸し住宅とすること、また、第二層にトリビューンを設けることが要求された。こういうタイプはすでにエイシャンブレでは典型的なタイポロジーとなっていた。セルダ案が実施に移った最初期のパセイジ・デ・グラシアには一軒家が建っていたがそれはすぐにこれは重層の建物に変わり、メイン・フロアは2階でオーナーが住み、地上階、地下はオーナーが経営する事業に充てられた。繊維産業で発展したバルセロナでは、郊外、特にジョブレガット川にそってコロニーが作られ、この工場で生産されたものがバルセロナへ運ばれ売られるというのが常のパターンになっていた。
ガウディはこの建物をバロック様式で設計しているが、この建物こそ、ガウディにとって公に評価された最初で最後の作品となったのであった。というのも、バルセロナ市は丁度1899年から、市内に新築された優秀な建築に年度賞を与えることになり、その第一回授賞作品にカサ・カルベを選んだのである。
同年度貧は十九年後の1917年まで総計32ばかりの作品に対して授与されたのだが、ガウディはその後二度と受賞していない。しかしカサ・カルベ以降、彼は更にオリジナリティーに富んだ作品、サグラダ・ファミリア教会御誕生の門、カサ・バトリョ、ラ・ペドレラあるいはグエイ公園などを建設しているのに一切受賞していない。これはなぜなのか。建築学校のディレクターを勤め政界、文芸界に強い影響力を持っていたドメネク・イ・モンタネルなどはこの10年問のうち、5度にわたって受賞しているのにもかかわらず、ガウディは1回のみ。しかも初回であったから、ほとんど間違って受賞してしまったのではないだろうかということも考えられる。