インタビュー8 Entrevista a Josep Maria Botey

カサ・バトリョを再生する
ジョセップ・マリア・ボテイ

 ガウディはたぶん材料についての知識を充分に持ち合わせ、職人の腕のみせどころをつくることをよくわきまえた建築家であったと思います。
 私がカサ・バトリョで担当した修復箇所は裏側のファサード、一階と地階、そして正面ファサードの下部、そしてテラス、ふたつのトップ・ライトです。一階内部は完全に壊されていました。地階も同様で、二階も何も残されていませんでした。裏側ファサードは傷みのひどかった特にバルコニーを補修し、オリジナルのトレンカディスはとり戻すことができました。また建物はその全体に杭が新たに打ち直され、それによってまだ実際には掘り下げられていませんが、地下四層分の床面積を増やすための構造体が完成されています。また、この方法によって必ずしも健全とはいえない建物の構造的状態を改善しました。杭を打ち直したのは杭の部分だけではなく境界壁部分もです。というのはひとつの境界壁の荷重が一点で受けられるというところがあったからで、そこには目地に亜鉛を使っている石の柱が見つかり、80t.ほどをこの柱が受けていました。
 この建物自体すでにガウディによって改装されています。彼はそりがついていた木の古い梁を裏返して使ったりしています。
 ある部分は床を替え、ある部分はそのままにしました。梁の上にオリジナルのものがなにも載っていない時には鉄骨の梁に置き換えられました。ガウディは木の梁に鉄を埋め込んでこれを石灰でかためるという事をしています。この石灰が原因で鉄が腐食してしまいましたが、石灰ではなくてポートランド・セメント(1*)を使っていたら現在でもかなりよい状態で残っていたはずです。ガウディは建物にあったこの梁を再利用するために曲がっているものを反対に置き、この木の梁のたわみが戻った時に対応できるように床を三ヶ所で切って、エクスパンをつくっています。
 地階に降りるためのスロープがあったのではないかと考えられます。ちょうどグエル館のように馬と馬車を置くために使われ、1904年撮影の写真を見るとファサードには馬小屋のドアのようなものが見られます。この当時の写真を見ると入口は唯一カサ・バトリョへ入るアクセスとなる玄関ホールへの入口しか見あたりません。現在私が一階の床に開けた辺りにグエル館と同じような柱の周りにスロープが取り付いていたのではないかと考えられます。ここから馬が地下の馬小屋へ降りたわけです。しかしこれを実証するような何の記録も残されていませんが、スペースは馬車や馬を降ろすのに充分な大きさがあります。一階に以前あった店舗は地階を大幅に改装しています。この時にライト・ウェルを塞いだほか、可能な限りの変更を加えています。吊り天井や入口にあった石のエレメントも無くなりました。これを再生させるためには写真と現在ある石に残っている跡をスタディするしか手がありませんでした。石に当たるものはすべて凸部があるのですが、新しく付け加えたことをわからせるために凹部をつけました。
 店舗部分の壁面の紋様はエントランス・ホールに残されているものからコピーしました。同じ紋様が連続しないために二種のものをひとつおきに並べましたが、それぞれはミリ単位でコピーしたものを使いました。たくさんの点を写し取ってこれを新しい壁面に移し、カーボンを使って手描きで線を繋げていくという方法がとられました。
 バルコニーの色についてですが、市役所はファサードをさわることを許可してくれませんでした。1904年の写真を見るとバルコニーは黒かったのでたぶんラッカーを塗るのと同じ方法で色が塗られたのだと思います。金色にするのにはフデアの油(*1)と金箔を使っています。フデアの油の上にこれを貼っていくわけですが、これが鉄を補強したのです。
 ファサードにはもともと木の扉があり、馬車の入口をこれが塞いでいました。その後にガラスがはめられ、今は建物のメイン・アクセスと同じ扉がシンメトリーに取り付けられました。こうしてファサードに保たれていたデザイン上の均衡が崩されてしまいました。これはオーナーの希望によって取り付けられたものですが、私は反対しました。私の提案によって階段を取り付けるために一階床の梁が切り取られました。これは切り取っただけではなく梁の断面を見せることにもなっています。必要な高さを確保しながら階段は梁にサポートを付ける必要のないような形に切り取りました。この辺りでクライアント側の無理解さや設計者である私との間の衝突が生じて、私は監理から手を引きました。
 建物の裏側にある二階部分のトップ・ライトはそこに付いていた鉄格子を外し、その鉄のサポート部分を利用してステンレス板を二枚使ってL型鋼にして、以前あったような形に戻しました。形はそのままで材料をかえています。その上に三枚重ねのガラスを水はけの良いように勾配を付けて置きました。ガラスも熱処理をしない普通のものを使ったのは、将来切り取る必要が生じた時この可能性を残すためです。取り替えたセラミックは防水性能の高い、凍結にも強い高温で焼いたものにしました。そして、その表面はその後グエル公園の修復でもオリジナルのものと見分けがつかないものをつくって活躍した同じセラミストが製作しました。
 私なんかが提議するのではなく、誰かがいつも適応できうる価値基準というものがあり、規則というものがあれば我々なんかがディスカッションする必要がないわけです。この規則というのは非常に明解である必要があり、私なんかが変え得ない、それを試す必要もないものであるべきではないです。文化財の修復に関係する時これに関与し、しかも現場監理があるわけだから全て統一した法則があるべきです。しかもこの価値基準というのはユニバースであり、しかも自分の生きる時代だけで判断してはいけないのではないでしょうか。
 アクシデンタルなことはアクシデンタルなこととして受け止めるべきと考えます。ここに床スタイルがあったから今回ここにそれと同じものを置くというのは修復のシステムしては正しくないと思います。なぜならそこに使った材料は耐久性からは限界があるものです。このシステムというのは無限であるべきでしょう。ガウディは早乾性セメントを使いましたが、ポートランド・セメントがあったらそれを使ったはずです。ガウディはその時代にあった材料を極限まで使い切っています。

注1 ポートランド・セメントがスペインで一般に使われるされるようになったのは、ガウディのパトロンであるグエルのはじめたアスランドという工場出現以来で、ガウディはグエル公園で大量にこれを使っている。
注2 フデアの油は鉱物質の油で現在のシリコンのように防水性能をもたせたいところに塗ったり、あるいはバロック期以降は金箔を貼るときに接着剤の替りに使われた。

*Josep Maria Botey
1943年バルセローナの近郊グラノジェールスに生まれる。1968年バルセローナの建築学校卒業。1960年以降は演劇と接触、舞台装置、台本などを幾つか残している。76年から83年にはグラノジェールスの市博物館の運営に参加。85年以降は建築に専念、多くの修復を手掛けている。現在バルセローナの司教館を修復中。

at
1994年8月号
”ガウディを蘇生する”より
続く