4/2 カサ・バトリョ


1972年3月撮影

ガウディの自然主義は、いや自然主義というにはあまりにも個性的であるかもしれないが、ついにエレメントやモチーフとしてではなく、ファサード全体、構造自体、あるいはブラニングにも打ち出されてくるのである。
また私生活でも一番幸福な時を迎えるのがこのころである。50歳を過ぎ、建築家としての世間的な名声というものも得、父は90歳を越え今も健全であるし、また規模からも質からも、その円熟期にふさわしい規模の仕事を着実に得ているのである。
パセオ・デ・.グラシアという当時のバルセロナで最もシックな通りに続々とモデルニスモを代表するようなきらびやかな建物が建てられているサイトに、纖維工業主バトリョJosep Batlló i Casanovasは5層の建物を持っていた。しかし1877年に建てられたこの何の変哲も無い建物(エミリ・サラ・コレテスEmili Sala Cortés 1841〜1920年の設計)をバトリョ氏は必ずしも気に入ってはいなかった。折りしも丁度その隣りに、ネオ・ゴシック風モデルニスモ搽式でカサ,アマトレールが建てられてからというものは、なおさらであった。
隣りの建物は当世風なきらびやかさや、バルセロナの経済的繁栄そのものを示すように、ファサードは多彩色に彩られ、そのうえ歴史と伝統、気品のあるバルセロナを象徴するかのように、細部は繊細なゴシック様式でまとめられているのである。
バトリョ氏は丁度この建物が藩成するころの1901年、市役所へ自分の古い、むしろみすぼらしい持ち家を処分するように解体処理顧いを出すのであった。ところがその後同業者で友人であるミラ氏はバトリョ氏にひとりの建築家を紹介するのであった。それがガウディである。そして1904年の3月、バトリョ氏は再びガウディのサインの入った図面とともに、改築および一部増築願いを市へしている。これがカサ・バトリョである。つまりガウディは躯体の健全なのを見極め解体に反
対して、改築、また建蔽率を見極めての増築を提案したことが分かる。


隣接するカサ・アマトリェール(1898〜1900年)
2010年2月21日撮影
カサ・アマトリェールについてはこちらをどうぞ
http://d.hatena.ne.jp/Arquitecto/20110823/1314128331


カサ・ミラに展示されているカサ・バトリョの模型 左が改装前の建物、右がガウディの手に増改装されたもの
2012年1月22日撮影