SDジュジョール特集号

タイトル原稿

カサ・ミラ
巨匠ガウディと弱冠ジュジョールの奇妙な関係はここで頂点を見せた。ミラ夫人のガウディ嫌いはカサ・ミラ設計当初からだが、悲劇の週間と呼ばれるアナーキストの決起はその頂点に達した。それは躯体工事が終わり、内装と外壁のバルコニーを始めようとしたときだった。ガウディはうねったファサードのバルコニーにアヴァンギャルドな鉄細工を貼り付け、インテリアでは彫りの入った建具、天井は波紋曲面のあるスタッコ、タピストリーのようなフレスコ画などが取り付くはずであった。ミラ夫人とガウディは最悪な状況に至り現場監理を放棄した。付けられるはずのバルコニーの見本はすでにできていた。しかし、巨匠なしでもジュジョールは見事に完成させていた。いや、巨匠にアイディアを出したのはジュジョールだったのかもしれないのだ。

カサ・バトリョ
まだ学生だったジュジョール建築学校教授のガリッサ、フォント・イ・グマの事務所で実務をする傍ら、アカデミズムとは到底関係なく、独自な作風を築き、巨匠の域に達していたガウディが気になっていた。カサ・バトリョは建築家としてのステータスを決めるようなバルセロナのメインストリートにあり、ガウディはオーナーの意見に反して、既存の建築を改装、一部増築している。ファザード仕上げでガウディは若いジュジュールを使った。ジュジョールは筆を持ち、円盤形のセラミックに絵付けをした。セラミックは内装材としても他で使われているが、そこにはアイディアこそあるがオーソドックスな色合いで、従来工法なのだが、ジュジョールファサードを円盤やモザイク・タイルでこれ以降のガウディの作風にも決定的な影響を与えている。

グエル公園
10年を越えるガウディとジュジョールの共同作業の中で、幾たびも師と弟子の関係が交錯して見える。今日、何をガウディとし何をジュジョールの作品かとするのは意外と難しいかもしれない。ガウディは十分の経験を積み、社会的な地位を築いているが、今だ実現する作品ごとに新たなインパクトを生み出している。この新鮮さはジュジョールの造形、特に色彩感覚に依るジュジョールの?手?になるところが多いといわざるを得ない。グエル公園のベンチは15ヘクタールを占める共同体のなか唯一のオープン・スペースで、プレファブ化された構造体にセラミックで色付けがされた。地中海建築の完成されたものがギリシャ建築であり、古代建築が彩色されていたというガウディの解釈に公園はポリクロミー化された。カサ・バトリョジュジョールは円盤に色付けをしたが、ここでは廃物となったセラミックのかけらや自宅で使っていいた皿さえもこれに貼り付けてキャンバスに変えてしまった。

ボファルイ邸
ジュジョールの得意とする作品はボファルイ邸のような作品だろう。夏の休暇を毎年過ごしていたタラゴナ県の農村、アルス・パリャレゾスにはかなりのジュジョールの作品が散らばっている。そのなかでもこの農家は、ガウディが世界大戦、経済恐慌と相次いで活動の場を失い、ジュジョールとの共同体制を崩したすぐ後の作品だった。この世の中の厳しい状況とは関わりないかのように、若さが溢れ、ジュジョールは全てのアイディアをそのまま形にしている。1913年の夏に母屋の屋根裏階改装の話があり、全面改装になったのがクリスマス休暇に再びこの村を訪ねた時だった。計画が完成したのは翌年夏のやはり休暇の時。その後も収穫高次第で工事は進行されていったから、最後に改装されたファサードには1931の年号が刻まれている。

カン・ネグレ
彷彿するイマジネーションが鉛筆の先からこぼれ落ちるように、ジュジョールの手からはスケッチが溢れ出たといわれる。彼のスケッチ力が群を抜いていたのはよく知られている話だ。そんななかに建築学校で彼は黒板に向かって両手に持ったチョークで一つの建築を描いてみせたというのが語り継がれている。彼の作品はこのスケッチ力に依るところが多い。それは行き当たりばったりですらあり、継ぎ接ぎばかりで、全体はコラージュとすらなってしまう。カン・ネグレではもう一つ面白いことがある。門扉には古くなった農工具の部品が張り付いている。1915年にデザインされたといわれるがこの年、デュシャンはニューヨークでダダイズムを表明している。それより先の1911年にはピカソらのパトロンであったマニャックは旧市街に店舗をデザインさせているが、このマニャックの店はシュールとしかいいようがない。

トーレ・デ・ラ・クレウ
叔母がジュジョールに好き勝手に設計をするようにと言って頼んだ郊外の夏期休暇住宅。幾何学への関心からか、改装ではなく足場でも失ってしまったジュジョールなのか、円を組み合わせたプランでヴォリュームを遊んでいる。三つの直径8メートルのシリンダーと、これの半分のシリンダーを組み合わせ、2戸の住宅を垂直に組み立て二戸共有の階段室が付いている。トーレ・デ・ラ・クレウ(十字の家)は俗に?卵の家?といわれているように、シリンダー頂部にはヴォールトが載り、ここにジュジョールがガウディの共同時代に手腕を見せたモダイクが張られた。当時近くにあったガラス工場でもらった割れたガラスをこれに貼り付けたのだった。ガラスの接着性能が原因でこれは原形を止めず、後年セラミックに置き換えられてしまったものの怪奇なヴォリュームを際立てている。

ビスタベージャ教会
教会はタラゴナの典型的な農村にあり、ジュジョールのほとんどの作品同様、小さなスケールで十分な予算もなく、建設には村民の手を借りている。方形プランで、この中央にある交叉した4本の柱からパラボラ・アーチが建ち上がり、キューポラがつくられている。この垂直性はゴシックの空間構成をみせるが、ヴォールト下のスペースのダイナミズムとコーナーに置かれたポーティコとの関係からはむしろバロック的である。内部はジュジョール得意な青に塗られ、金箔が付きはではでしく外壁のグロッタ様の仕上げとコントラストを付けている。鐘塔への階段にはジュジョールならではの3次元に展開された鉄細工の手摺が付けられている。これは現場で指示するほかデザインのしようがない、ジュジュールならではの独自なデザインとなっている。

モンフェリーの聖堂
未完の建築として終わってしまったこの教会はオーナーのたっての願いでカタルーニャの聖山モンセラートのメタファーとなっている。モンセラートは宗教的にはベネディクト派の聖山とされているが、奇形奇岩のジュジョールの手になるとこうなってしまう。建築なのか看板絵なのか、モダン・アートなのかキッチュなのか微妙な冒険をここでもジュジョールはしている。現在もモンフェリーの村ではバルセロナサグラダ・ファミリア教会のように後継者によってその建設が着々と進められている。村人はむろん実際手を汚しているばかりか、構造はドイツ在住のオランダ人エンジニア、ヨス・トムロウがこれまたボランティアで援助に当たっている。

メトロポール劇場
労働者の精神高揚ために作られたこの劇場は、ジュジュールがガウディの工房から独立して実質的に最初の建築作品になった。市の建築家からさえ反対されたアクロバットとしか思えない客席の柱、シーリングが踊り、パティオから入る自然光、階段室の躍動感に満ちた動き、極彩色に塗られたインテリアが舞台の華やかさに負けないほどに展開されている。劇場は後年映画館に改装されてしまう。この時窓は塞がれて、動線も不明となってしまった。廃虚同然のこの若きジュジョールの作品を再生したのはジュセップ・ジナス。彼は現代作家として第一線で活躍しているものの、昔からジュジョールのファンで、修復作業をジュジョールに劣らぬ徹底的な現場指揮でこの建物を甦らせた。

カサ・プラネイス
カサ・ミラからさほど遠くないところにあるこの作品は、一見カサ・ミラの影響を思わせる。最初は個人住宅が計画されたが、翌年には集合住宅に変更されて設計された。作品に恵まれなかったジュジョールとしては珍しいバルセロナ市内の作品。個人住宅の案は宗教的なモチーフとフローラルな模様で豊かに飾られているが、実際作られた集合住宅はシンプルであり30年代の合理主義を予告するようなデザインとなっている。2階のトリビューン部分をはじめ執拗にカーブが付けられブラインドが張り巡らされ、さらにこの上層部はテラスを廻して繰り返しこの曲線が現れている。内部は捻じれた柱あり、シーリングのレリーフ、窓やバルコニーの鉄細工というようにいつものジュジョールの姿が見える。

鹿島出版会 SD
ガウディの愛弟子・ジュジョールの夢
1999年4月号より