夢人ジュジョール

カン・ネグレ


巨匠は孤独であろう。巨匠に集まる人々が居ないというわけではない。いや、巨匠が自らを孤独に仕立ててしまうのかもしれない。
日本ではたぶんガウディの協同者という程度にしか知られていない建築家、ジョセップ・マリア・ジュジョールはマエストロだろうか。巨匠に烏合し、これに踊らされてしまったひとりであったのかもしれない。
ガウディは若い頃から数々のコラボレーターを持っていた。例えばプンティは一連の鉄細工を作った町工場で、そこにいた職人マタマラは親子二代にわたって石膏の型、彫刻のプロトタイプ制作の仕事をしたし、ベレンゲールは学業も終えず生涯建築家になれなかったが、サグラダ・ファミリアではガウディの右腕として働いた。バヨは施工業者としてカサ・ミラを建設、ルビオは構造的な才能を巨匠に捧げ、サグラダ・ファミリアの身廊で構造計算の試算をしたし、もっと若いスグラーニェス、イシドロ・プーチ・イ・ボアダ、ジョルディ・ボネット・イ・ガリはガウディの没後、サグラダ・ファミリア教会建設続行を再開した人たちだ。
ガウディが抱えた数々のコラボレーターのなかで、どうしても気になるのがジュジョールの存在である。
ガウディはジュジョールを知る前と知った後では一線を画したようにスタイルが違っている。つまりカサ・カルベ、これはちょうど100年前の1900年に完成させられたているが、その次にデザインされるカサ・バトリョカサ・ミラとはスタイルが全くというほどに違っている。カサ・カルベのバロックの引用から、カサ・バトリョは増改築という物理的な制約の中にありながらも全く自由な発想のもと、歴史様式から開放された作品に仕立てている。次のカサ・ミラグエル公園はさらに言うまでもない。
両者の出会いが正確にいつだったかという年代の考証は別として、間違いなくこの頃にジュジョールはガウディに接近している。これは全くの偶然なことではないのだろう。ジュジョールはもちろん当時は一介の建築学校の学生であった。しかも年齢差は親子ほどの27ある。巨匠と仕事をしたその他のコラボレーターはジュジョールが世紀の移り目に接近した時ほどの変化が作品にどう見てもない。確かに両者の関係は他ならぬものがある。カランデイはジュジョールがガウディの没年、彼が49歳になるまで結婚しなかったことなどをあげて、両者の性的な関係すら暴こうとしている。
さて、他にも疑問がある。ではジュジョールはガウディから離れて一人で仕事をした時、何を残したかということである。これがいくつかの改装やマイナーな作品しか残していないのだ。しかもそれが作品として呼ぶにはあまりにこまかなものばかりで、あるいは設計施工をしたとでも思わせるような作品が多い。
無論、ジュジョールが独り立ちした頃の時代的な不運さというものもあった。この辺りがガウディの活躍したカタルーニャの社会経済状況とは全く違っている。世界恐慌第一次大戦などは建築するするものにとって決定的な打撃であり場を見つけるのは容易でない。

こういう不幸な時代に生まれたといえジュジョールは夢人だった。
建築での豊穣なイマジネーションは物としてできてしまうと結構面白くない事が多々ある。だが、ジュジョールの作品ではこれがやたらと面白いのだ。
この面白さは今も多くの人々をジュジョールに引き寄せている。メイン論文を寄せてくれた建築家カルロス・フローレス教授はその一人で、雑誌編集長時代から数々の論文を載せ、ついに全2巻からなる名著『ガウディ、ジュジョールそしてカタルーニャモデルニスモ』を1982年に書いているが、ガウディ、ジュジョール両者を巨匠として同レベルに扱っているほどだ。ヨス・トムローはオランダの構造エンジニアで、シュトゥットガルトフライ・オットー研究所でガウディのコロニア・グエル教会の懸垂模型再建を担当し、その後はジュジョールの未完の教会であるモンセラート寺院の建設続行にボランティアとして参加している。現代建築家のジョセップ・ジナスはこれまたジュジョールの熱狂的なファンで生誕百年を記念して企画されたジュジョール展のレイアウトをした他、最近はジュジョールの残した劇場メトロポールを修復再建し、再生させ現代建築として自分の作品としている。また、写真家の鈴木久雄氏はこの特集号に使われた写真を15年以上の歳月に渡って撮っている。
彼らだけではないだろうジュジョールはとても気になる存在なのだ。

今年はジュジョール没後50年。この特集号をジュジョール愛する人々、夢多き人たち、そしてジュジョール自身に捧げたい。

丹下敏明

鹿島出版会 SD

ガウディの愛弟子・ジュジョールの夢

1999年4月号より